徳川家元
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徳川 家元(とくがわ いえもと、天文17年(1548年)11月 - 慶長8年8月14日(1603年9月19日))は、戦国時代から江戸時代の人物。松平宗家8代目の三河国・岡崎城主・松平広忠の庶子で、徳川家康の異母弟とされる人物。通称は三郎五郎。
略歴[編集]
『徳川幕府系譜』に見られる人物である。松平広忠の落胤といわれ、家康より6歳下の異母弟とされている。生まれた際に広忠から松平家の重宝である貞宗の脇差を我が子の証拠として母に渡されたという。天文18年(1549年)3月6日に父の広忠が死去し、生後半年ほどで父を失った。
その後、家康が大名として独立すると、家元は広忠から与えられた脇差を持って家康の下に現れ、家康から異母弟として認められたという。しかし、家元は幼少時より病弱だった上、13歳の時には両足が動かなくなって歩行も困難になるなど多病だった。このため、家康を助けて活躍することなど到底望めなかった。
家康が征夷大将軍になって江戸幕府を開幕してからしばらくしての慶長8年(1603年)8月14日、家元は死去したという。享年56。
存在の疑問視[編集]
以上のように、家元に関しては経歴に不明な点が多く、架空の存在の可能性が非常に高い。Wikipediaではなぜか「松平」とされているが、系譜では「徳川」を称していたとされている。
家元の没日であるが、この日には家康の異父弟である松平康元が死去している。しかも康元の法号である傑伝宗大興院は、家元と全く同じものである。このような偶然が果たしてあるのだろうか。そのため、康元のなぞらえて創作された架空の人物という説も濃厚である。