後藤賢豊
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後藤 賢豊(ごとう かたとよ、? - 永禄6年10月1日(1563年10月17日))は、戦国時代の武将。六角氏の家臣。
生涯[編集]
父は後藤但馬守。兄弟姉妹に千種三郎左衛門、妹(蒲生賢秀正室)。子に壱岐守、高治がいる。受領名は父と同じ但馬守。通称は重左衛門尉。
新藤氏と共に六角氏の両翼を務める重臣中の重臣の家柄で「六角氏の両藤」と呼ばれるほどの家柄であった。諱の賢は主君・六角義賢の偏諱と考えられる。
賢豊は奉行人として六角家の奉書を出す立場にあり、永禄2年(1559年)に六角義賢が浅井長政を攻めた際には、蒲生氏や池田氏と共に恩賞条を定める働きをしている。永禄5年(1562年)に義賢が上洛した際には大徳寺の警護を務めた。
永禄6年(1563年)、義賢の嫡男・義治によって観音寺城内において殺害された(観音寺騒動)。明確な理由は不明であるが、この事件により以後の六角家は家臣団が離反してゆくことになる。後藤家の家督は息子の高治が継承した。