山縣慶次郎
山縣 慶次郎(やまがた けいじろう、1974年(昭和49年)6月29日 - )は、日本の市民活動家。右翼思想家。山縣は、右翼思想家として比較的に小規模な組織の長を務め、現在、夷王会副総裁代行。なお、山縣慶次郎と言う名は本名ではない。
少共会初代会長(解散)、学風会初代代表(解散)、民尊会統括部長、広報部長(解散)。皇尊会事務長、会員指導主任、皇尊会千葉本部監事、第2代副会長、第3代会長(解散)。
経歴[編集]
生い立ち[編集]
千葉県市川市出身。父親は警察官.母親は管理栄養士。長男として生まれる。 9歳の時に、家族で東京旅行に出かけた際、偶然に中曽根康弘内閣総理大臣を目撃し、それ以来政治について興味を持つようになったと言う。小中高と陸上競技に励み、100mの自己ベストは11,6秒だと言う。
学生時代[編集]
千葉県市川市の小学校を卒業し、市川市立の中学校に入学する。1989年に卒業。小学校時代には、学級委員長を度々務め、成績はトップだったと言う。中学校でも活躍し、生徒会長も務めた。同年、私立日本大学習志野高等学校に進学する。高校では目立たない方だったが、高校2年生の時に友人8名と共に学生組織「少共会」を結成。自ら代表を務める。大学受験を機に解散。1992年に卒業。同年、千葉県内の私立大学に入学する。大学在校時に、再び友人を集めて学生組織「学風会」を結成。この際も、会の代表を務めている。友人達からは、長さんと言われ親しまれる。大学3年生の時に、学風会副代表と喧嘩をして同会を退会している。1996年、大学を卒業する。
活動家[編集]
大学を卒業後、地元企業に就職する。サラリーマンとして生活しつつ、政治家の夢は捨てなかった。25歳の時に、同企業の課長に就任する傍ら、60数人の同志を集めて、市民団体「民尊会」を結成。9月に結成式を行い、会長より統括部長に任命される。部長として活動し始めた山縣は、同会の外務部長.羽田董太と共に外部組織と連結するための広報活動を行う。2000年に会社を退社し、活動に専念する。同年、9月、団体の活動資金不足により急遽第2回総会が開かれ、山縣はこの場で会員費制導入を提言する。結果、山縣の圧力により可決されたが、反対していた林財務部長が10人の部下と共に退会する。この事により会員数は50人程度になってしまっただけではなく、会長候補であった林を失ってしまった。
同年10月、山縣は統括部長を辞任。広報部長に左遷される。2001年、親交を深めていた副会長が第2代会長に就任したことを受けて、再び統括部長に任命される。2002年に、第3回総会が開かれ、会の活動理念が市民の権利を守るから、市民をテロ等から守るに変更され、会名も山縣の手によって、「皇尊会」に改名される。その後、2006年、皇尊会事務長、会員指導主任、千葉本部監事に。2007年、同会千葉本部筆頭監事などを歴任し、2008年には会長より副会長に任命される。副会長就任後は、竹島問題を取り上げて在日韓国人などを批判した。
2009年、第2代会長が円満辞職をしたことを受けて、臨時会長に就任し第4回総会を決行。その場で会長選挙が行われ、全会一致で山縣が第3代会長に就任し、山縣体制が形成された。しかし、山縣が会長に就任した時には会員が30数人しかおらず、会存続の危機に陥っていた。2010年10月、皇尊会の会員不足を理由に、山縣は会長命令で解散を宣言。10年続いた会が終焉を迎える。2012年、山縣を支援する小規模組織「山縣組」の組長より、特待顧問に任命された。
2012年現在、夷王会副総裁代行。
主張[編集]
家族[編集]
- 祖父(秋山基晴-元自衛官、元大日本帝國陸軍中尉)
- 祖父(高倉雅太朗-元消防官)
- 父(秋山武治-元警察官) *園生会第9代園長。
- 母(秋山静子-管理栄養士)
- 弟(山縣良勝-元皇尊会第2代監事長) *夷王会外務次官。