奥山喜内
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奥山 喜内(おくやま きない、? - 正徳4年(1714年))は、江戸時代中期の水戸藩の家臣[1]。
生涯[編集]
江戸幕府の奥医師・奥山交竹院の弟に当たる。大奥御年寄の絵島と結びついてその乱行を助長し、遊興を共にしたり、遊女や狂言役者などに絵島を会わせるなどしたという。絵島や奥山の所業が酷くなると、絵島の弟の豊島常慶から諫められ、乱行を止められたりしたが、その行いは改まらなかった[1][2]。
このため、正徳4年(1714年)に絵島生島事件が起き、絵島が罪に問われると、奥山は特に諸々の姦犯の罪が数えきれないほどあるとして、死罪に処された[1]。絵島生島事件で死罪になっているのは絵島の兄の白井勝昌の他はこの喜内だけであり、絵島の近親だったゆえに死罪にされた白井と違ってその所業によほどの問題があった可能性がある。