大縄義辰

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大縄 義辰(おおなわ よしとき、生没年不詳)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将佐竹氏蘆名氏家臣

略歴[編集]

通称は監物丞。受領名は讃岐守。父は大縄左京亮[1]

佐竹義重に仕えてその側近となり、その命令を受けて佐竹東家の佐竹義久の指揮下に入って陸奥南郷の支配を勤めたり、佐竹家の直轄領の管理に当たり、多くの功を挙げた。天正15年(1587年)2月に義重の次男が蘆名義広として蘆名家に入嗣した際、義広に従って蘆名家の家臣となり、幼少の義広に代わって家政を主導。そのため、蘆名家中分裂の一因をなし、天正17年(1589年)の摺上原の戦い伊達政宗に大敗すると、義広を守って常陸に帰還した[1]

以後は再度、義重・義宣父子に従い、朝鮮出兵に際しては義宣に従って肥前名護屋城に在陣。さらに文禄2年(1593年)には水戸城修築の普請奉行を担当した[1]

脚注[編集]

注釈[編集]

出典[編集]

  1. a b c 阿部猛・西村圭子編『戦国人名事典 コンパクト版』新人物往来社。P188

参考文献[編集]

  • 阿部猛西村圭子編『戦国人名事典 コンパクト版』新人物往来社 ISBN 4-404-01752-9