大岡越前守

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大岡越前守(おおおか えちぜんのかみ、1677年?月?日-1752年2月3日)は、大岡家の当主及び江戸町奉行、第18代山田町奉行。諱は大岡忠相で、大岡越前とも呼ばれる。

生涯[編集]

幼少期[編集]

1677年江戸で出生。幼少期は比較的裕福な生活を送っていたが、16歳の時に兄が八丈島に島流し、19歳の時に一族の1人が殺人事件をおこして切腹したこともあり、大岡家はかなりの不興に陥っていた。

政治への出会い[編集]

1712年、現在の伊勢市に所在した山田奉行所の18代町奉行として就任。以後徳川家宣政権下で町奉行であり続けた。

当時、伊勢神宮領は宮川を境に紀州領と接していたため、その境界をめぐってたびたび争いが起こっており、代々の奉行は、徳川御三家に遠慮して明確な判定を下さなかったが、奉行に着任した越前守は自ら測量し、紀州藩内に入り込んだ場所に杭を打ち、これを境界とした。

将軍家継時代は江戸に戻り、普請奉行に就いた。

徳川吉宗と越前守[編集]

1716年徳川吉宗が征夷大将軍に就任し、その翌年には越前守を町奉行として任命した。

1720年、江戸で頻繁に起こっていた火災を鎮火する為に、いろは四十七組を結成した。これは事実上日本初の消防組織である。

他にも、武蔵野新田の開発をしたり、小石川養生所を造ったり、飢饉対策としてサツマイモの栽培を助成したなど、江戸市中の行政長官としての越前守の残した功績は大きい。

1736年、旗本のまま寺社奉行に就任。奏者番兼任でない異例の寺社奉行抜擢で、しばらくは江戸城内の詰所がなく冷遇された。次いで西大平藩主として大名になり、奏者番兼任となった。

1752年2月死去。その後は大岡越前祭と呼ばれる、越前守を讃える祭りを毎年4月に茅ヶ崎市で行っている。

大岡裁き[編集]

江戸町奉行としてのリアル大岡裁きは白子屋お熊事件の1件のみである。しかも、被告のお熊はすらすらと容疑を認めたため、講談の多くのような「大岡裁き」を発揮する暇はなかった。
なお、天一坊事件のように実際は別の奉行が裁いた事件もある。

関連項目[編集]