坂田太郎

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坂田 太郎(さかた たろう、1903年10月15日 - 1997年4月16日)は、日本の経済学史・社会思想史研究者[1]

フランソワ・ケネー[2]をはじめ重農主義の研究で知られる[3]。『イデオロギー論の系譜』ではマンハイム知識社会学文化社会学マルクス史的唯物論の影響を受け、フランス唯物論の合理主義的人間像を基盤としたイデオロギー論を展開した[2]

略歴[編集]

1903年(明治36年)10月15日、長唄二世今藤長十郎(本名坂田政太郎)の長男として、東京で生まれる。東京市京橋区築地小学校、開成中学校卒業。1927年(昭和2年)3月、東京商科大学卒業、同大学研究科入学。同年7月、大学研究科在籍のまま、内務省社会局嘱託となり、1934年(昭和9年)5月まで務める。1929年(昭和4年)3月、東京商科大学研究科修了[4]。1930年(昭和5年)[4]樺俊雄武田良三佐藤慶二湯浅興宗と社会学研究会を創立した[5]戸坂潤が会長格[4]。同研究会は戸坂や三木清などが間接的に参加し、1930年代に『文化社会学研究叢書』を同文館から刊行、「社会哲学・社会科学研究会」を経て、戦後は「東京社会科学研究所」に改組した[5]

1934年(昭和9年)福島高等商業学校講師、1935年(昭和10年)同教授。1941年(昭和16年)山口高等商業学校教授[4]。1946年(昭和21年)山口地方委公益委員[1]。1948年(昭和23年)、東京社会科学研究所の『季刊社会学』の発刊に関与する。1949年(昭和24年)山口大学経済学部教授。1953年(昭和28年)名古屋大学経済学部教授。神戸大学教授を兼任。1956年(昭和31年)一橋大学社会学部教授[4]。1967年(昭和42年)定年退職[1]明治大学政経学部教授。1974年(昭和49年)亜細亜大学経済学部教授、1985年(昭和60年)退職[4]

1997年(平成9年)4月16日、冠不全のため自宅で死去[6]

著書[編集]

単著[編集]

  • 『イデオロギー論の系譜』 民友社、1948年/法律文化社(新文化選書)、1954年/田中義久編・解説、こぶし書房(こぶし文庫)、1995年
  • 『社会思想史ノート1』 法政大学出版局、1960年
  • 『社会成層の問題――社会思想史の一視点』 第三出版、1985年

編著[編集]

  • 『フランス社会思想史文献目録――小樽商科大学所蔵手塚文庫目録』 共編、春秋社、1966年
  • 『わが国における重農主義研究文献目録』 渡辺輝雄共編、勁草書房、1974年

訳書[編集]

  • 『哲学論叢 32 社会学の方法的原理』 ウェーベル著、岩波書店、1930年
  • 『「経済表」以前の諸論稿』 フランソア・ケネー著、春秋社(古典経済学叢書)、1949年
  • 『経済表』 フランソア・ケネー著、春秋社(古典経済学叢書)、1949年
  • 『二十世紀の社会学 第2 経済組織の社会学』 ムーア著、誠信書房、1960年
  • 『フランス革命の知的起源』上下 D・モルネ著、勁草書房、1969年・1971年

脚注[編集]

  1. 1.0 1.1 1.2 日外アソシエーツ編『現代物故者事典 1997-1999』日外アソシエーツ、2000年、259頁
  2. 2.0 2.1 田中義久「解説」坂田太郎『イデオロギー論の系譜』こぶし書房、1995年、272-289頁
  3. 杉原四郎「<書評> 坂田太郎・渡辺輝雄編『わが国における重農主義研究文献目録(Bibliography of Physiocracy in Japan)』(剄草書房、1974年) 」『経済資料研究』10、1976年3月、51-56頁
  4. 4.0 4.1 4.2 4.3 4.4 4.5 田中義久「坂田太郎略年譜」坂田太郎『イデオロギー論の系譜』こぶし書房、1995年、290-291頁
  5. 5.0 5.1 内藤莞爾「<論説>一九三一年の日本社会学(講演草稿)」『立正大学文学部論叢』84巻、1986年9月、31-32頁
  6. 「坂田太郎氏死去」『朝日新聞』1997年4月17日付夕刊1社19面

参考文献[編集]

  • 佃實夫ほか編 『現代日本執筆者大事典 第3巻 (人名 か~し)』 日外アソシエーツ、1978年