土田桃雲斎
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土田 桃雲斎(つちだ とううんさい、? - 慶長5年9月18日(1600年10月24日?))は、安土桃山時代の武将。石田三成の家臣。
略歴[編集]
名に関しては桃雲ともいわれる[1]。名前から剃髪していた可能性がある。名に関しては太田牛一の『慶長記』や湯浅常山の『常山紀談』では桃雲とあるが、『佐和山落城記』では東雲斎と記されている。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、佐和山城の守備を務めた[1]。関ヶ原本戦で三成が敗れた後、小早川秀秋らを主力とした東軍が攻めてくると、『佐和山落城記』では城兵を指揮して各口を備えさせた、とあることから、家臣の中でもそれなりの地位にあった人物だと思われる。
慶長5年(1600年)9月18日、本丸を東軍に破られると最早これまでと覚悟を決め、天守閣に火をかける。そして、三成の妻である皎月院(宇多氏)を刺し殺して、自らも殉死した[1]。ただし、これには異説もある。『慶長記』では「我(桃雲)も腹十文字に切て、無常の因と成にけり」とあり、自刃したように記録されている。ただし、『佐和山落城記』では石田一族や生き残った将兵をことごとく刺し殺してその痛ましい有様を見ながら、「我亦、譜代の家臣にもあらず、死を同ふせん事何の益なし。菩提ヲ弔わん」と述べると、抜け道から佐和山城を脱出し、後に水翁と号して日本諸国を廻国した、とある。