共産主義者同盟情況派

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共産主義者同盟情況派(きょうさんしゅぎしゃどうめいじょうきょうは)は、共産同系の新左翼党派。共産主義者同盟再建準備委員会の別名[1][2]

概要[編集]

1966年10月に再建された共産主義者同盟(第二次ブント)の分派。共産同から1968年3月に旧マル戦派が分裂(第一次分裂)、1969年8月に赤軍派が分裂した(第二次分裂)。1970年6月の共産同七中委では松本礼二ら情況派幹部2名が除名され、松本らは共産主義者同盟再建準備委員会(通称:情況派)を結成した。7月の八中委では三上治ら叛旗派幹部2名が除名され、三上らは共産主義者同盟叛旗派を結成した(第三次分裂)[2]

拠点は明治大学生協[3]。機関誌は『ROT』。主なメンバーは松本礼二、石井暎禧古賀暹篠田邦雄長崎浩斎藤克彦など。古賀が雑誌『情況』を刊行していたことから情況派と呼ばれた。古賀によれば、雑誌『情況』は党派とは別のジャーナリズムであり、党派が情況派と呼ばれることは迷惑だったという[4]

1974年に古賀暹、斎藤克彦ら「游撃派」と、松本礼二、長崎浩、篠田邦雄ら「「遠方から」派」に分裂した[1]。古賀によれば、政治局員の篠田が会議で「三里塚問題での全面妥協を謳ったビラ」を出すべきと主張したが、古賀はこれに反対して篠田や松本と分かれることになったという[4]

共産主義者同盟游撃派[編集]

1974年10月に情況派の左派が独立して結成した[5]。機関紙は『游撃』、機関誌は『ボルシェヴィキ』。古賀暹によれば、古賀が分裂した情況派の指導者となったが、『情況』の刊行と約30人の若手活動家をもつ党派の指導を両立させるのが難しくなり、中井正美らを呼んで游撃派となった。中井が指導者の古賀は党活動に専念して『情況』は廃刊にすべきと主張したため、古賀は1975年から76年頃に政治活動から離れて東ドイツに渡航した[4]

游撃派は1976年にブント系諸派と五派共闘を結成、その解散後は共産主義者同盟赤軍派プロレタリア派と共闘した[1]。1979年8月10日に共産主義者同盟赤軍派ML派と合流して共産主義者同盟革命の旗派を結成した。革命の旗派は1981年9月に共産主義者同盟紅旗派と合体して共産主義者同盟赫旗派を結成した[6]。赫旗派は1983年9月の共産主義者同盟首都圏委員会の分裂を経て、1999年6月に日共左派系の日本共産党(マルクス・レーニン主義)と統合して労働者共産党を結成した。

脚注[編集]

  1. a b c 山崎一夫「共産主義者同盟情況派」、戦後革命運動事典編集委員会編『戦後革命運動事典』新泉社、1985年、75頁
  2. a b 田代則春『日本共産党の変遷と過激派集団の理論と実践』立花書房、1985年、286頁
  3. 絓秀実、井土紀州、松田政男西部邁、柄谷行人、津村喬、花咲政之輔、上野昂志、丹生谷貴志『LEFT ALONE――持続するニューレフトの「68年革命」』明石書店、2005年、217頁
  4. a b c 荒岱介、古賀暹「親子二代、雪のふる日に人生が変わっていく」、荒岱介編著『破天荒な人々――叛乱世代の証言』彩流社、2005年、133-136頁
  5. 田代則春『日本共産党の変遷と過激派集団の理論と実践』立花書房、1985年、298頁
  6. 田代則春『日本共産党の変遷と過激派集団の理論と実践』立花書房、1985年、311・316頁