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伊予吉田藩
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伊予吉田藩(いよよしだはん)は、江戸時代に伊予国に存在した藩である。宇和島藩の支藩である。藩主家は外様大名の伊達氏。藩庁は吉田陣屋。石高は3万石。現在の愛媛県宇和島市(旧北宇和郡吉田町)に存在した。
概要[編集]
明暦3年(1657年)、宇和島藩の初代藩主・伊達秀宗(伊達政宗の庶長子)が5男の伊達宗純に3万石を分与して吉田に陣屋を構えたことにより、伊予吉田藩が立藩した(7万石となった宇和島藩は後に10万石に高直し)。以後、9代にわたって伊達氏が支配して明治維新を迎え、廃藩置県により吉田県となり、その後第一次府県統合で消滅している。
藩政などは本藩の宇和島藩の監督・指導を受けており、見るべきところはほとんどない。
有名なのは、米沢人(政宗が付けた譜代の上士)でも南予人(現地採用の中士)でもない土佐国の浪人が重臣に成り上がり、土佐人の専制に反発する領民をも巻き込む騒動になった事件(死者まで出し、仙台藩の介入で落着)や、元禄14年(1701年)に3代村豊(当時は宗春)が、刃傷沙汰を起こし後の元禄赤穂事件の原因を作った勅使饗応役の浅野長矩とは対照的に霊元上皇・東山天皇からの院使饗応をソツ無くこなしたことや(勤皇の面目躍如と本家宇和島藩より賞賛されている)、寛政5年(1793年)に、紙の専売に反対する武左衛門一揆が発生しているところくらいである。
歴代藩主[編集]
- 伊達家
外様、柳間、陣屋、3万石