中原章房
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中原 章房 なかはら あきふさ/のりふさ | |||||||||||||||||||||||||
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中原 章房(なかはら のりふさ/あきふさ)は、鎌倉時代末期の公家である。後醍醐天皇に仕えたが、天皇の討幕計画を知って無謀であると諫めたため、不興を買って暗殺されたことで知られる。
略歴[編集]
朝廷に仕えた明法家。父は大判事の中原章保。『太平記』では「法曹一途ノ硯儒」と称されたとされ、当時の後醍醐天皇から厚い信任を受けたという。
後醍醐天皇は正中の変で鎌倉幕府討幕に失敗し、再度討幕計画を練っていた。そして、それを章房に打ち明けたが、章房は到底成功するはずがないとして計画の中止を後醍醐天皇に諫奏。これで逆ギレした後醍醐天皇は計画が漏洩することを恐れたこともあり、章房に刺客を差し向けた。そして、元徳2年(1330年)4月に章房が清水寺を参詣の途上において、蓑笠を付けた瀬尾兵衛太郎によって暗殺されたという[1]。
父の死を知った子の章兼・章信らは必死に刺客を探し出し、そして遂に討ち果たしたという。
脚注[編集]
注釈[編集]
出典[編集]
- ↑ 安藤「南北朝の動乱」P42