中原章信
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中原 章信 なかはら あきのぶ/のりのぶ | |||||||||||||||||||
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中原 章信(なかはら のりのぶ/あきのぶ)は、鎌倉時代末期の公家である。
略歴[編集]
父は中原章房。兄に章兼がいる。
後醍醐天皇は正中の変で鎌倉幕府討幕に失敗し、再度討幕計画を練っていた。そして、それを章房に打ち明けたが、章房は到底成功するはずがないとして計画の中止を後醍醐天皇に諫奏。これで逆ギレした後醍醐天皇は計画が漏洩することを恐れたこともあり、章房に刺客を差し向け、元徳2年(1330年)4月に章房が清水寺を参詣の途上において、蓑笠を付けた瀬尾兵衛太郎によって暗殺された。父の暗殺を知った章信は兄の章兼と共に犯人を捜し、遂に京都白河において瀬尾を発見し、父の死から16日後の4月17日に敵討ちを果たしたという[1]。
この快挙は公家ながら、大いに称賛されたという。
脚注[編集]
注釈[編集]
出典[編集]
- ↑ 安藤「南北朝の動乱」P42