ポーリン・ケイル
ポーリン・ケイル(Pauline Kael、1919年6月19日 - 2001年9月3日)は、アメリカ合衆国の映画評論家。
経歴[編集]
ポーランドからニューヨークに移住したユダヤ人夫婦の5人の子供(兄2人、姉2人)の末っ子として、カリフォルニア州ソノマ郡ペタルーマで生まれた。ポーリンが生まれたとき両親はペタルーマで養鶏場を経営していた。8歳のときサンフランシスコに引っ越す。1940年カリフォルニア大学バークレー校哲学科中退[1]。1941年に詩人のロバート・ホーランとヒッチハイクでアメリカを横断し[2]、約3年間ニューヨークで同棲した。その後、サンフランシスコに戻り、戯曲の執筆に挑戦したり、実験映画の制作を手伝ったりした[3]。1947年に詩人のロバート・ダンカンの紹介で映像作家のジェームス・ブロートンと出会い[4]、1948年に一人娘のジーナを出産したが[2]、ブロートンとはすぐに別れ、裁縫師、料理人、教科書編集者、ゴーストライター、留守番電話オペレーターなど様々な仕事をして生計を立てた[4]。
1952年秋にバークレーの喫茶店でケイルと友人が映画について議論していたとき、映画誌『シティ・ライツ』の編集者ピーター・D・マーティンにチャップリンの『ライムライト』のレビューを依頼され、1953年に初めて映画評論を執筆した。この評論が注目され、映画誌『サイト・アンド・サウンド』や社会批評誌『パルチザン・レビュー』などに映画評論を執筆した。1955年から1963年までバークレーのラジオ局KPFAの番組で映画評論を行った。バークレーの映画館「バークレー・シネマ・ギルド・シアターズ」の経営者エドワード・ランドバーグがこの番組を聴いたことがきっかけとなり[2]、1955年から1960年まで同館の運営に携わった[5]。1955年にランドバーグと結婚したが、1959年に離婚した[6]。
1965年に初の著書『'I Lost It at the Movies』を刊行し、15万部を売り上げた。1965年にグラフ誌『ライフ』、1965年から1966年に女性誌『マッコールズ』、1966年から1967年にオピニオン誌『ニュー・リパブリック』の映画評論を担当した[7]。1967年に『ニューヨーカー』誌に『俺たちに明日はない』を絶賛する評論を執筆した。『ニューヨーク・タイムズ』は同紙の映画評論家を『俺たちに明日はない』を酷評して多くの読者の抗議を受けたボズレー・クラウザーからレナータ・アドラーに交替した。このとき『ニューヨーカー』編集長のウィリアム・ショーンは同誌の映画評論家をブレンダン・ギルからケイルとペネロープ・ギリアットの2人に交替した[2]。
1968年から1979年までギリアットと6ヶ月交代で『ニューヨーカー』の映画時評を担当した[8]。1974年に『Deeper into the Movies』で全米図書賞を受賞。1978年に『ニューヨーカー』を休職してハリウッドに向かい、友人のウォーレン・ベイティの誘いでジェームズ・トバック監督の『Love and Money』(1982年)の製作に携わったが、トバックと対立してプロジェクトから撤退した[4]。1979年に6ヶ月間、パラマウントのエグゼクティブ・コンサルタントを務めた後[2][4]、1980年に『ニューヨーカー』の映画時評に復帰した[7]。1980年に評論集『When the Lights Go Down』を刊行した際、『ニューヨーカー』の同僚のレナータ・アドラーが『ニューヨーク・レビュー・オブ・ブックス』誌に「ポーリンの危機」と題する書評を執筆し、「耳障りなまでに、一遍一遍、一行一行、とぎれることなく、くだらない」などと酷評して話題になった[9]。
1991年に71歳で引退した際は全国的なニュースになった[2]。80年代前半からパーキンソン病の初期症状に悩まされ、90年代に入ると悪化して毎週映画時評を書ける状況ではなくなっていたという[1]。
2001年9月3日、マサチューセッツ州バークシャー郡グレートバリントンの自宅で死去、82歳[7]。
人物[編集]
- 辛口評論家として知られる。同時代に低評価を受けた作品や娯楽映画でも絶賛する一方、定評のある作品や芸術映画、好きな監督の作品でも酷評した。アンドリュー・サリスらの作家主義を批判したことでも知られる。
- 1971年に『市民ケーン』(1941年)の製作に関する評論「Raising Kane」を発表した。作家主義的な評価を批判し、オーソン・ウェルズ監督ではなく脚本家のハーマン・J・マンキーウィッツが『市民ケーン』の主要な作者であると主張した。しかし、ピーター・ボグダノヴィッチなどからカリフォルニア大学ロサンゼルス校教員のハワード・スーバーの研究を剽窃している、また多くの事実誤認が含まれていると批判された[2]。町山智浩は「ケイルはアメリカン・ニューシネマの守護神だったが、『市民ケーン』をオーソン・ウェルズの作品ではないと論評し、ニューシネマの騎手ピーター・ボグダノヴィッチに「虚偽である」と徹底的に反証されて、批評家としては終わった」と述べている[10]。
- マーティン・スコセッシ、ブライアン・デ・パルマ、サム・ペキンパー、フランシス・フォード・コッポラ、ロバート・アルトマン、ベルナルド・ベルトルッチ、ウディ・アレン、フィリップ・カウフマン、ジョナサン・デミ、ジェームズ・トバック、スティーヴン・スピルバーグ、ジャン・ルノワール、サタジット・レイなどの監督を擁護した[2][4][1]。アルフレッド・ヒッチコックやスタンリー・キューブリックをあまり評価しなかった[2]。
- ポール・シュレイダー、クエンティン・タランティーノ、ウェス・アンダーソンはケイルのファンであることを公言している。
肯定的に評価した作品[編集]
- 『メニルモンタン』(1926)[11]
- 『大いなる幻影』(1937)[8]
- 『ゲームの規則』(1939)[11]
- 『ヒズ・ガール・フライデー』(1940)[11]
- 『レディ・イヴ』(1940)[11]
- 『靴みがき』(1946)[11]
- 『たそがれの女心』(1953)[11]
- 『二十四時間の情事』(1959)[2]
- 『ハッド』(1963)[8]
- 『はなればなれに』(1964)[12]
- 『ウイークエンド』(1967)[13][11]
- 『俺たちに明日はない』(1967)[13][11]
- 『ワイルドバンチ』(1969)[13][11]
- 『M★A★S★H』(1970)[7]
- 『ギャンブラー』(1971)[7][12]
- 『わらの犬』(1971)[7]
- 『愛の昼下がり』(1972)[13]
- 『ゴッドファーザー』(1972)[7][12]
- 『ラストタンゴ・イン・パリ』(1972)[13][11]
- 『ミーン・ストリート』(1973)[11]
- 『ラスト・アメリカン・ヒーロー』(1973)[2]
- 『ロング・グッドバイ』(1973)[11]
- 『ゴッドファーザー PART II』(1974)[13][11]
- 『アデルの恋の物語』(1975)[13][11]
- 『カッコーの巣の上で』(1975)[13]
- 『シャンプー』(1975)[13][11]
- 『ジョーズ』(1975)[13][11]
- 『ナッシュビル』(1975)[13][11]
- 『キャリー』(1976)[7][12]
- 『タクシードライバー』(1976)[13][12]
- 『SF/ボディ・スナッチャー』(1978)[3]
- 『ウォリアーズ』(1979)[13][11]
- 『エレファント・マン』(1980)[12]
- 『メルビンとハワード』(1980)[11]
- 『ミッドナイトクロス』(1981)[11]
- 『サムシング・ワイルド』(1986)[13]
- 『ハンナとその姉妹』(1986)[13]
- 『カジュアリティーズ』(1989)[7]
否定的に評価した作品[編集]
- 『カサブランカ』(1943)[14]
- 『ライムライト』(1952)
- 『めまい』(1958)[14]
- 『ウエスト・サイド物語』(1961)[12]
- 『去年マリエンバートで』(1961)[8]
- 『サウンド・オブ・ミュージック』(1965)[2][12]
- 『欲望』(1967)[12]
- 『2001年宇宙の旅』(1969)[14]
- 『ダーティハリー』(1971)[14]
- 『時計じかけのオレンジ』(1971)[14]
- 『ダーティハリー2』(1973)[4]
- 『スーパーマン』(1978)[14]
- 『レイジング・ブル』(1980)[14]
- 『レイダース/失われたアーク《聖櫃》』(1981)[14]
- 『ブレードランナー』(1982)[14]
- 『SHOAH』(1985)[12]
- 『スタンド・バイ・ミー』(1986)[14]
著書[編集]
- I Lost It at the Movies (1965)(『私はそれを映画館で失くした』[1])
- Kiss Kiss Bang Bang (1968)(『キス・キス・バン・バン』[1])
- Going Steady (1969)(『映画と親密な仲』[1])
- The Citizen Kane Book (1971)
- Deeper into Movies (1973)(『映画により深く入り込んで』[1])
- Reeling (1976)(『よろめき』[1])
- When the Lights Go Down (1980)(『場内が暗くなるとき』[1])
- 5001 Nights at the Movies (1982, revised in 1984 and 1991)
- Taking It All In (1984)(『それらをすべて呑み込んで』[1])
- State of the Art (1985)
- Hooked (1989)(『とりこになって』[1])
- Movie Love (1991)
- For Keeps (1994)
- Raising Kane, and other essays (1996)
出典[編集]
- ↑ a b c d e f g h i j k 斎藤英治「伝記を読む――ブライアン・ケローの『ポーリン・ケイル 暗闇のなかの人生』」『いすみあ:明治大学大学院教養デザイン研究科紀要』第4巻、2012年3月
- ↑ a b c d e f g h i j k l Frank Rich「Roaring at the Screen With Pauline Kael」ニューヨーク・タイムズ、2011年10月27日
- ↑ a b LAWRENCE VAN GELDER「Pauline Kael, Provocative and Widely Imitated New Yorker Film Critic, Dies at 82(Page 2)」ニューヨーク・タイムズ、2001年9月4日
- ↑ a b c d e f Phillip Lopate「The Lady in the Dark」1989年11月、The Stacks Reader
- ↑ Polly Frost and Ray Sawhill「Pauline Kael」Ray Sawhill
- ↑ Pauline Kael IMDb
- ↑ a b c d e f g h i LAWRENCE VAN GELDER「Pauline Kael, Provocative and Widely Imitated New Yorker Film Critic, Dies at 82(Page 1)」ニューヨーク・タイムズ、2011年10月27日
- ↑ a b c d LAWRENCE VAN GELDER「Pauline Kael, Provocative and Widely Imitated New Yorker Film Critic, Dies at 82(Page 3)」ニューヨーク・タイムズ、2011年10月27日
- ↑ 常盤新平『ニューヨーク五番街物語』集英社文庫、1985年、190頁
- ↑ 2023年3月15日のツイート
- ↑ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t Matt Mahler「20 Perfect Movies According to Pauline Kael, the Subject of Tarantino's Final Film」MovieWeb、2023年7月15日
- ↑ a b c d e f g h i j Allen Barra「Pauline Kael Gets the Last Word in ‘What She Said’」truthdig、2018年11月11日
- ↑ a b c d e f g h i j k l m n o 「Pauline Kael’s Most Passionate Reviews, From ‘Bonnie and Clyde’ to ‘Taxi Driver’」IndieWire、2019年6月5日
- ↑ a b c d e f g h i j Rollyn Stafford「10 Movies Everyone Enjoys Except Pauline Kael」Taste of Cinema – Movie Reviews and Classic Movie Lists、2016年5月10日
関連文献[編集]
- ロバート・L・キャリンジャー著、藤原敏史訳『『市民ケーン』、すべて真実』(筑摩書房[リュミエール叢書]、1995年)
- 山田宏一『何が映画を走らせるのか?』(草思社、2005年)