ヘシェン

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ヘシェン(転写:hešen、和珅、乾隆15年5月28日1750年7月1日) - 嘉慶4年1月18日1799年2月22日))は、中国清朝政治家は致斎。乾隆帝の母方である満洲正紅旗ニオフル氏(鈕祜禄氏)出身。中国史上最大の富豪で、乾隆帝、嘉慶帝の2帝に仕えたが、正一品文華殿大学士軍機大臣として専横の限りを尽くしたため、乾隆帝の死後に自害を命じられた。

略歴[編集]

満州族のニオフル氏の出身で、清の八旗制において正紅旗に所属していた。ヘシェンは眉目秀麗で、満州族の貴族の子弟が学ぶことになる宮廷の学校で教育を受けて、さらに有力な満州族の貴族で法務大臣を務める政治家の孫娘と結婚して家柄を高めた。

1772年、当初は下級の衛士として仕官する。ところが当時の皇帝である乾隆帝が上奏文を検討しながら『論語』の一説を引用すると、居合わせた側近が乾隆帝の言葉の意味が分からず右往左往する中で、ヘシェンは同じ『論語』の中から適切な言葉を引用して返答したので、一躍乾隆帝の信任を得るようになった。乾隆帝はヘシェンは博識であるとして自らの側近として重用し、財務副大臣、軍機大臣、内務府大臣、領侍衛内大臣などの要職に次々と登用していった。しかもこれらの役職はいずれも兼任の形で任命されており、与えられた役職は財政・皇帝の補佐・皇帝の生活と事務の管理・首都の防衛責任者と事実上、皇帝の政治と軍事の大権を掌握したも同じであった。乾隆帝のヘシェンに対する寵愛はさらに深まり、1780年には自分の末の娘とヘシェンの息子を婚約させて、皇族の一員とまでしている。1782年には乾隆帝から正式に宰相、並びに人事担当大臣にまで任命され、さらに朝貢などを統括する長官なども兼任した。

大権を得る[編集]

これにより、乾隆帝の信任を背景とした強大な独裁者・ヘシェンが誕生する。

ヘシェンは乾隆帝のおかげで得た大権を自らの悪事に利用した。彼は財物に欲深く、汚職を駆使して莫大な富を蓄えることに執着した。自らがほとんど全権を掌握していたので、政府の資金を自らの懐に入れたり、人事担当の大権を悪用して地方官から賄賂を要求したりした。陝西省の知事が銀20万両(清の1両は6240キロなので相当な額である)をヘシェンに賄賂として送った際、ヘシェンの金庫番にまず銀5000両を贈る必要があったので、賄賂はさらに膨れ上がることになったという逸話がある。その酷さに、他の重臣から告発されかけもしたりしたが、ヘシェンは汚職が乾隆帝にばれないようにするため、政務の監察官は60歳以上の者を任命するという決まりを作って抑え込んだ。60歳以上なら当時の平均寿命をとうに過ぎているので、監察官に任命された者は危険を冒してヘシェンを告発するより、快適な老後を手に入れることが優先されたからである。

1793年、ヘシェンは乾隆帝の代理として、イギリスの訪中使節であるジョージ・マカートニー北京郊外の別荘(現在の北京大学キャンパスの一部)に迎え、そこで大使に随行していた医師に脱腸帯をあつらえさせた。

1795年、在位60年を迎えた乾隆帝は、祖父の康熙帝の在位年数を超えることは罪に当たるとして、息子の嘉慶帝に譲位して上皇となった。しかし嘉慶帝はあくまで名目上の皇帝であり、実権は上皇となった乾隆帝が相変わらず有していたので、ヘシェンの悪政はそのまま続いた。その余りの酷さに、遂に白蓮教徒の乱まで起こる始末であり、乾隆帝の晩年から清に衰退の兆しが見えだした。

最期[編集]

1799年に乾隆帝が崩御すると、それまで名目上の皇帝に過ぎなかった嘉慶帝に実権が回ってきた。嘉慶帝はヘシェンの不正や悪事を心得ており、上皇である父帝が存命中は手出しできずに黙認していたものの、父が崩御すると直ちにヘシェンを逮捕した。その際、ヘシェンの私有財産は全て差し押さえとなって監査されたが、その全財産は銀8億両という天文学的な数字(現在の金額から考えると約144億ドルの可能性がある)だったという。これは、当時の清政府の年間の歳入額が約7000両であったから、その10倍を軽く上回っていたことになる。結局、度重なる悪事と搾取により、ヘシェンは嘉慶帝の命によって自害した。乾隆帝の崩御からわずか2週間後のことであったという。50歳没。