フローレンス・ナイチンゲール

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フローレンス・ナイチンゲールFlorence Nightingale1820年5月12日 - 1910年8月13日)は、イギリス看護婦社会起業家統計学者看護教育学者。近代看護教育の母。病院建築でも非凡な才能を発揮した。クリミア戦争での負傷兵たちへの献身や統計に基づく医療衛生改革で著名[1]国際看護師の日(5月12日)は彼女の誕生日である。ロンドンの聖トーマス病院に付属してナイチンゲール看護学校を設立、これは世界初の宗教系でない看護学校であり、現在はキングス・カレッジ・ロンドンの一部となっている。

略歴[編集]

ナイチンゲールは、1820年にイタリアで生まれた。裕福な家庭の出身であったが、1855年クリミア戦争の発生で多くの傷病兵が満足な治療も受けられずに死んでいるのを知り、家族の反対を押し切って戦地のクリミア半島に向かい、負傷兵の手当てに尽力した。ナイチンゲールは献身的な手当や治療を傷病兵に施し、それまでほとんど死を待つばかりだった傷病兵の多くが助かったと言われている。その献身的な姿は「クリミアの天使」「ランプを持った貴婦人」などと謳われて大いに慕われた。あるとき、手違いから敵のロシア兵が搬送されて来たので、激怒した医師や軍人はそのまま連れ出せと命じたが、ナイチンゲールは「傷病兵に敵も味方もありません! 馬鹿なことを言わないでください!」と激怒して手当をしたという。なお、ナイチンゲールのこの献身的な活動が、それまで地位が低くて下種な職業と見られていた医師や看護婦の立場を一躍、押し上げることになった(当時、医師や看護婦は低劣な職業と見られており、医師は1度使用した医療器具を洗わずに次の患者に使用していた。看護婦も前に使用していた包帯をそのまま次の患者に使用するなど、非常に不潔な状態だった)。
ナイチンゲールは統計学にも貢献し、野戦病院で死者や傷病者のデーターを分析し、戦闘で負傷した傷ではなく、予防可能な疾病で多くが亡くなったことを突き止めて、衛生環境の改善により死亡率を劇的に低下させたことでも知られている。

クリミア戦争後の1860年、ナイチンゲールはイギリス首都ロンドンに看護分野初の職業訓練校であるナイチンゲール看護学校を設立した。1858年には王立統計協会から女性初の会員として認められた。

ナイチンゲールはクリミア戦争での活躍と、それによる看護教育の確立などにより、一躍有名人になった。
しかし、本人は自分が有名になったからと言って自分を広告塔のように使われるのを非常に嫌った。特にナイチンゲールは自身の手紙で「客観的であるべき医療データーに政治的な意向が反映されることを非難し、招くべきでなかった死をなかったことにして除外するのは都合がいい」と痛烈に皮肉っている。つまりデータの扱いに政治が介入することを厳しく批判した。

日本との関係では、津田塾大学の創立者である津田梅子と交流。過去のイギリスの状況を踏まえ「活躍の機会が限られた日本人女性に同情したこと」などがある。

1910年8月13日、90歳の長寿をもって死去した。

死後の顕彰[編集]

ナイチンゲールは前述の通り、生前は自身が顕彰されることを好まなかったが、その事跡から死後には多くの顕彰が行われている。

まず、看護教育を確立したことから「近代看護教育の生みの親」と評価されている。また、ナイチンゲールが築き上げた医療現場でのデーター活用や衛生管理は、現在の感染症対策にも生かされている。ナイチンゲールの誕生日である5月12日は国際看護師の日国際看護師協会によって定められており、日本政府は1990年になって看護の日に制定している。

脚注[編集]

  1. ナイチンゲールと統計”. 総務省 統計局. 2018年8月12日確認。

外部リンク[編集]