トーマス・ブレーク・グラバー

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トーマス・ブレーク・グラバーThomas Blake Glover1838年6月6日 - 1911年12月16日)は、幕末および明治時代に活躍したスコットランド出身の商人。息子は倉場富三郎

略歴[編集]

少年時代[編集]

北東スコットランドのアバディーンシャーフレーザーバラに1838年6月6日に生まれる。父トーマス・グラバーと母メリー・フィンドレーの間の8人の子の5番目として生まれた。6歳とのとき一家はブリッジ・オブ・ドンに転居した。父は湾岸警備隊長となった。フォーダイスアカデミーで学んだあと、ジャーディン・マセソン商会に入社した。

来日[編集]

1857年5月から6月頃にかけて上海に上陸した。18から19歳の若さで上海というアジアに進出したグラバーは、1859年9月19日に来日した。来日した船は9月16日上海を出港したP&O汽船アゾフ号という上海と長崎を結ぶ定期航路便の第一便という[1]ジャーディン・マセソン商会のケネス・ロス・マッケンジーの元で働く。1861年にマッケンジーが清国に行くことになると、ジャーディン・マセソン商会の長崎での代理人を引き継ぐこととなる。最初は日本の緑茶を買付ていた。

独立[編集]

2年後の1861年に「グラバー商会」を設立して、主に茶を再製して輸出する業務を行うようになる。1863年ごろから武器の売買に関わるようになると、討幕派に武器を輸出して支援する。イギリスと薩摩藩の仲介に一役買ったり、薩摩藩から海外留学生を出す支援をしている。西洋館「グラバー邸」[2]を長崎に建てたが、最古の西洋館であった。

幕末には江戸幕府米国その他の海外勢力と結んだ治外法権を含む不平等条約から反西洋の「攘夷」がはびこった。ナショナリストの薩摩と長州は反幕府勢力となり、天皇を権力につかせるため戦争となり、グラバーは武器と軍艦を供給した。

1863年には「長州五傑(長州ファイブ)」がジャーディン・マセソンの船で渡航することを助けた。さらに1865年薩摩藩五代友厚を含む15名の薩摩藩遣英使節団を送る支援をした。同年の1865年には蒸気機関車「アイアン・デューク号」を走らせるなどのデモンストレーションも行った。1869年5月27日にはトーマス・グラバーの発注によりアバディーンのアレクサンダー・ホール&カンパニーによりJHO SHO MARU(常勝丸)の名で建造され、1869年3月27日(旧暦2月15日)に進水し、8月11日に竣工した。明治3年(1870年)に「龍驤丸(りょうしょう)」と命名され、熊本藩から明治新政府に献上され、装甲艦扶桑の就役まで日本海軍の旗艦であった。佐賀の乱台湾出兵西南戦争でも使われた。

三菱[編集]

1870年に「グラバー商会」が倒産。その後、高島炭鉱の経営に携わって1881年に岩崎弥太郎が買い取った後も所長の立場として、労働者との交渉などをする。岩崎弥太郎が亡くなって岩崎弥之助の時代になり、三菱の顧問として立場を強固にする。そして、現在のキリンホールディングスの設立に関わる。キリンビールの麒麟マークなどを縁起がいいとして取り入れた。そして、三菱の終身雇員となった。

1900年頃、大阪で淡路屋ツル(談川ツル)と出合い、ツルは内縁の妻となり、倉場富三郎とハナを産んだ。ハナは1876年に生まれ、英国商人ウォルター・ジョージ・ベネットと結婚し、後年は朝鮮に移り、1938年に亡くなった。彼女は4人の子があったが、孫は1931年に生まれ、米国に住んでいるロナルド・ベネット一人だけである。

晩年[編集]

1908年7月、勲二等旭日重光章を授与。1911年に腎炎で亡くなった。

グラバー・ハウス[編集]

スコットランドのアバディーンでは、グラバーの両親が住んでいた家『グラバー・ハウス』が保存されている。1997年に三菱重工の資金援助によって、グランピアン・日本トラストという財団が保有。アバディーン市が管理している。

脚注[編集]

  1. 内藤初穂著書の『トーマス・B・グラバー始末 明治建国の洋商』より
  2. グラバー園

参考文献[編集]

外部リンク[編集]