長州五傑
長州五傑(ちょうしゅうごけつ、英:Chōshū Five)とは、イギリス・ロンドン大学ユニヴァーシティ・カレッジに留学するために派遣された長州藩の若い武士5名を指す。井上馨(聞多)、遠藤謹助、山尾庸三、伊藤博文(俊輔)、井上勝(野村弥吉[注 1])の5名である。長州ファイブともいう。
渡航[編集]
トーマス・ブレーク・グラバー(グラバー商会)の仲介で、ジャーディン・マセソン商会、エイベル・ガウワー駐日イギリス領事が協力した。グラバーの支援については、デビーレ・ブラウンがThomas Glover and the Chōshū Fiveで論じている[1]。
文久3年5月12日(1863年6月27日)、ガワー総領事の斡旋でジャーディン・マセソン商会の船で横浜を出港し、上海に向かった。一行は11月4日、ロンドンに到着した。
約半年後の1864年の始め、井上馨(聞多)と伊藤博文(俊輔)は長州藩と英国とが戦闘に入る旨のニュースをジャーディン・マセソン商会のロンドン代表から聞き、帰国を決意した。
4月中旬に、井上(聞)と伊藤はロンドンを発ち、6月10日(7月13日)頃、2人は横浜に到着した。帰国後、井上(聞)は他藩などの渉外、伊藤は藩と欧米との交渉に主に従事している。
残った遠藤謹助はロンドンで英語を学び、ロンドン大学ユニヴァーシティ・カレッジでは分析化学・地質・鉱物を学んだが慶応2年(1866年)病気の悪化により帰国する。その後遠藤は藩に戻った後、明治維新後は政府の造幣局で働いた。
山尾庸三はロンドン大学で基礎科学を学んだ後、グラスゴー大学において造船を学んだ。王政復古後、中央政界入りした木戸孝允から母国で技術を役立てるように要請され、明治改元後の1868年11月に野村(井上勝)と共に帰国した。帰国後は横須賀製鉄所担当権大丞となり、明治3年(1870年)工部省の設立に尽力した。その後、工部権大丞・工部少輔、工部大輔を経て、1880年工部卿に就任するなど工務官僚として活躍した。
野村弥吉はユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドン(UCL)で鉱山技術・鉄道技術を学んだ。山尾と同じく木戸の要請により帰国後、養家の野村家から実家の井上家に復籍。イギリス人技師エドモンド・モレルの下で鉄道発展に寄与し、明治10年1月鉄道局長に就任した。日本の鉄道の父と呼ばれる一方、中山道幹線のための公債を目的外の東海道本線に使用したり、鉄道国有化を推進して、民間鉄道を圧迫した側面も持っている。
150周年シンポジウム[編集]
長州ファイブの渡英留学から150年の記念シンポジウムが行われた[2]。
- 日時:2013年9月26日(木)13:00-17:00
- 会場:アカデミー・ヒルズ(東京都港区六本木6-10-1 六本木ヒルズ森タワー49階)
- 主催:ブリティッシュ・カウンシル
- 協力:駐日英国大使館、在日英国商業会議所
- 後援:日本経済団体連合会
- 13:00-13:10 主催者挨拶
- 13:10-14:30 過去、現在、そして未来~時代と共に変容するリーダーとしての役割
- 「長州ファイブと UCL の大学哲学」
- サー・マルコム・グラント(ユニバーシティー・カレッジ・ロンドン、学長)
- 「日本の未来を担うリーダーシップとそれを育む社会的環境」
- 河野太郎(衆議院議員)
- 「テクノロジー社会におけるリーダーシップ:日英における課題と方向性」
- サー・ピーター・ウィリアム (大和日英基金、理事長)
- 「日本企業の変容とこれからの社会に求められるリーダーシップ」
- 藤沢久美 (シンクタンク・ソフィアバンク、代表)
- 「長州ファイブと UCL の大学哲学」
- 14:45-16:50 未来を切り開くリーダーを輩出する仕組みとそのエコシステム
- (パネルディスカッション)
注[編集]
- ↑ 留学時は野村家に養子入りしていた。