コザ暴動

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コザ暴動(コザぼうどう)とは、1970年12月20日沖縄県コザ市(現在の沖縄市)で発生した暴動である。

概要[編集]

1970年12月20日未明、アメリカ兵の車両が沖縄県の男性をはねて負傷させる事件が勃発する。実はこの少し前の1969年7月にコザ市近くの知花弾薬庫で毒ガス漏れ事故が発生したり、1970年9月飲酒運転していたアメリカ兵の車両が糸満町(現在の糸満市)で主婦をはねて死亡させる事件が発生していた。そして、主婦をはね殺したにも関わらず、アメリカ兵はその後の軍事裁判無罪となっていた。これは当時の沖縄が第2次世界大戦により、アメリカに占領されていたことが背景にはあった。また、当時はベトナム戦争が行われていて、沖縄はその出撃拠点として機能していたが、そのために沖縄で米軍人・軍属による犯罪が960件も1970年の統計では発生しており、これも沖縄の群衆の不満を高めていた可能性がある。

後者の糸満町の交通事故による不平な裁判は沖縄の民衆を激怒させており、今回の事故も無罪にされることを恐れて数千人に膨れ上がった群衆が、事故処理中のアメリカの憲兵や軍関係者の車両を包囲した。憲兵は威嚇発砲したがこれは逆効果で、群衆は逆に激高して車両を焼き払いながら、米軍嘉手納基地米軍住宅地区の2方向に分かれて進むという暴動が発生する。ただし、暴動と言ってもこの事件における群衆は非常に統率がとれており、沿道に停車していた米軍関係者の「黄ナンバー」の車両を道路中央に運び、火をつけたりした。略奪も発生していないという。後の調査によると、70台以上の車両が焼かれたものと見られている。

群衆の一部は嘉手納基地に侵入し、基地内の学校にも放火。これに対してアメリカ軍は催涙弾を使用し、までに暴動は沈静化した。琉球警察も出動したという。負傷者はアメリカ、沖縄側双方合わせて数十名であった。

1971年2月にこの騒動の指導者の男性とみられる人物が騒乱罪で逮捕されたが、起訴はされていない。警察は捜査を進めるも、沖縄の民衆は非常に非協力的で捜査は難航し、首謀者追及は断念せざるを得なくなったのである。また、騒乱罪の適用には「一地方における公共の平和、静謐を害する」という要件があるが、この暴動では群衆が地元住民の車両への延焼などに注意を払っていたことから、適用されなかった。やむなく検察は多数の容疑者に関して騒乱罪以外の罪を提要して、放火罪などで一部を起訴している。

沖縄はこの1年半後の1972年5月15日に、本土復帰を果たした。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]