2000年の阪神タイガースのユニフォーム
2000年の阪神タイガースのユニフォームは阪神タイガースがホーム用では1982年から、ビジター用では1984年から2000年=この年まで実に16~18年もの長きに渡って使用されたホーム白虎デザイン・ビジターグレー縦縞デザインユニフォームのうちこの年採用された帽子がビジター用と同じ黒に統一されたバージョンを指す。翌年ビジター用と共にフルモデルチェンジしたため短命に終わったユニフォームである。また、背番号・胸番号不統一最後のバージョンでありビジター用のユニフォームのデザイン・1982年以降のユニフォームの変遷と共にそれに関しては補足事項として扱った。
デザイン[編集]
帽子のデザインがこの年から鍔とT+Hマークが黒で後は白に黒の縦縞からビジター同様黒に銀のT+Hマークに変更。スパイクシューズも白に黒のラインから黒に白のラインに変更している。アンダーシャツ・ストッキング・Tigersのロゴ・胸背番号・上のネームは黒。ユニフォームはプルオーバーで白に黒の縦縞。左袖に猛虎マークがプリントされている。
概要[編集]
阪神タイガースがホーム白虎デザインのユニフォームを採用したのは1982年、この年掛布雅之がホームラン王を取り大日本除虫菊の金鳥蚊取りマットのCMでその姿が知られるほど印象深いユニフォームとなるがその2年後にビジター用をグレーの縦縞デザインに変更。すると掛布がまたホームラン王のタイトルに輝いた。(※ 余談だが掛布はユニフォームをプルオーバーに変更した1979年にもタイトルに輝いているのでユニフォーム変更はゲンが良かったという事になる。)さらにこのユニフォームで初の日本一(1985年)に輝いているからチームにとってゲンのいいユニフォームとなったようで以来ユニフォームを変えずに通すようなるがここから低迷するようになりAクラスに輝いたのは2000年開幕前現在で4回・最下位転落9回とゲンがいいとはいえなくなった。
その事を熟知したか前年から指揮を執る野村克也監督から「変更なくして猛虎再建はあり得ない」とユニフォームの変更を要請されてしまう始末。しかし球団は二の足を踏んでいた。実は阪神はデザインこそ変えなかったもののユニフォームをプルオーバーからボタン止めに変更して(プルオーバーの年から)2年連続最下位に沈めた過去がありそれがトラウマになっていたのである。しかしプルオーバーに戻しても低迷しているままだからとりあえず要求を入れることとした。それがホーム用ユニフォームをビジター用のデザインに統一したこの年のホーム用である。
阪神タイガースは大阪タイガース時代の1958年にホーム用の帽子をビジター用のデザインに統一していて阪神タイガースになってから1981年まで続けていた。統一時代は最下位が1回だけだった(1978年のみ)からゲンがいいと判断して同意したが…この年はやっぱり最下位。これには「ノムさんの要求をいれねばなるまい」とフルモデルチェンジを決意する。こうして帽子のみ変更バージョンはわずか1年でビジター用と運命を共にした。
補足事項[編集]
2000年の阪神タイガースのビジター用ユニフォーム[編集]
帽子・アンダーシャツ・ストッキング・スパイクシューズのデザインはホーム用と共通。ユニフォームの地色はグレーで黒の縦縞。HANSHINのロゴ・胸背番号・上のネームはホーム用同様黒。左袖にはホーム用同様猛虎マークがプリントされる。
1982年以降のユニフォームの変遷[編集]
- 1982年 - ホーム用が白虎デザインに変更。初代のはプルオーバー初代を継ぎ背番号丸数字・猛虎マークが1970年以降のデザインがプリントされる。ビジター用はプルオーバー初代のものが引き続き使用された。
- 1983年 - ビジター用マイナーチェンジ。(※ 1983年の阪神タイガースのユニフォームを参照。)
- 1984年 - ビジター用がグレー縦縞デザインにフルモデルチェンジ。背番号が角文字に統一。この年から猛虎マークがホーム・ビジター用両方につけられデザインが球団旗のデザインに変更される。
- 1988年 - プルオーバーからボタン止めに変更。この年専任監督として復帰した村山実のポリシーによるものとされている。
- 1991年 - プルオーバーに戻す。ビジター用のT+Hマークが白から銀色に変更。
- 2000年 - 帽子が19年ぶりに統一される。