龐淯
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龐 淯(ほう いく、生没年不詳)は、中国後漢末期から三国時代の魏の武将。字は子異(しい)[1]。父は龐子夏。母は趙娥。
生涯[編集]
涼州酒泉郡表氏県の出身[1]。はじめ涼州の従事として破羌県令を代行していたが、張猛が叛逆して涼州刺史の邯鄲商を殺害するという事件が起こると龐淯は官位を捨てて邯鄲商の遺体のあるところまで赴いて号泣し、張猛はこれを聞いて龐淯を義士と称えて殺さなかった[1]。後に龐淯は徐揖の主簿となるが、この徐揖も反乱で殺されたため、龐淯はその遺体を収容して3年間の喪に服してから帰還したという[1]。
曹操はこれを聞いて龐淯を中央に招聘し掾属とした[1]。曹操の没後は文帝に仕えて駙馬都尉、西海郡太守、中散大夫と要職を務めた[1]。
『三国志演義』には登場しない。