鶴田沢右衛門
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鶴田 沢右衛門(つるだ さわえもん、生年不詳 - 1885年(明治18年)5月1日)は、幕末の大村藩士、キリシタン。現在の長崎県に属する五島列島で最初となるカトリックの教会堂を建立した。洗礼名はペドロ。妻はテレジア鶴田フイ。
概要[編集]
幕末当時は大村藩主の側近であったが、キリシタン弾圧を免れるため、藩主により名目上は農地開拓者として幽閉流刑とされ、五島藩お預けとなる。その後五島藩主から玉之浦(現・五島市玉之浦町)にある大宝寺領のうち立谷を賜り[1]、同所に立谷郷を開き、のちに立谷教会の建設に関わった。鶴田の提案で人家よりも高い位置に建設する事になったとされる[2]。教会建設より7年後の1885年(明治18年)5月1日に帰天[3][4]。
歴史[編集]
- 1797年(寛政9年) - 大村のキリシタンが五島へ移住を開始
- 1836年(天保7年) - 大村純顕が家督を継ぎ大村藩第11代藩主となる
- 1858年(安政5年) - 五島盛徳が家督を継ぎ五島藩第11代藩主となる
- 1865年(元治2年) - 大浦天主堂にてベルナール・プティジャン神父により信徒発見
- 1867年(慶応3年) - 浦上四番崩れ
- 1868年(慶応4年) - 大政奉還で高札が掲示され、これによりキリシタンへの弾圧が強まる
- 1870年(明治3年) - 鯛ノ浦六人斬り事件
- 1873年(明治6年) - 高札の廃止
- 1874年(明治7年) - 区別町村調で玉之浦村内に立谷郷と記される[5]
- 1878年(明治11年) - 立谷教会が建設される
- 1879年(明治12年) - ロカイン司教により献堂祝別される
- 1882年(明治15年) - 大村純顕、死去
- 1885年(明治18年) - 鶴田沢右衛門、帰天
開拓者魂[編集]
キリシタン弾圧で大村から五島へ逃れてきた彼らの子孫達は第二次世界大戦後の50年代、移民としてブラジルに渡って行った者も多い。
脚注[編集]
出典[編集]
- ↑ “五島を世界遺産の島に|ようこそ五島の教会へ>井持浦教会>井持浦教会のあゆみ”. 五島市. 2016年8月5日確認。
- ↑ 五島列島リレー巡礼記(PDF)、カトリック池田教会(2011年4月).2016年12月17日閲覧。
- ↑ 『ルルド創設100周年記念誌』、102頁。
- ↑ “聖母に出会った少女ベルナデッタの歌”. 2016年8月10日確認。
- ↑ 『日本歴史地名大系 43 長崎県の地名』、665頁。
参考文献[編集]
- 木方十根、山田由香里『図説 長崎の教会堂』河出書房新社、2016年、ISBN 978-4-309-76239-5
- 鶴田家系図
- 雑賀雄二『天主堂 : 光の建築』淡交社、2004年、ISBN 978-4-473-03174-7
- 平凡社地方資料センター編集『日本歴史地名大系43 長崎県の地名』平凡社、2001年、ISBN 978-4-582-49043-5
- 井持浦カトリック教会『ルルド創設100周年記念誌』井持浦カトリック教会、1999年
- 玉之浦町郷土誌編纂委員会編『玉之浦町郷土誌』玉之浦町、1995年