魏忠賢

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魏 忠賢(ぎ ちゅうけん、ウェイヂョンシィエン、1568年 - 1627年)は、中国明朝後期の宦官

生涯[編集]

華北貧農出身で、読み書きもできず勉強もせず、賭博場に入り浸るごろつきのような存在だったという。結婚して娘が生まれたが、賭博で作った借金の取り立てにあったので、1589年に自ら去勢して明の首都である北京に出て、宮中に入り込んで宦官となった。しかし、しばらくは宦官の中でも最下級の人物として下働きを余儀なくされた。

魏忠賢にチャンスが巡り合ったのは、万暦帝皇太子である朱常洛(後の泰昌帝)の宮殿に努める宦官となり、常洛の乳母と親密な関係を構築するようになったことである。常洛は万暦帝に皇太子であるにも関わらず嫌われており、その常洛の長男である朱由校(後の天啓帝)もそのために祖父には嫌われており、まともな教育すら受けられず、大工仕事に夢中になった。しかも由校は幼少時に生母を失っていたので、乳母を事実上の母親として育つようになった。

1620年に万暦帝が崩御し、朱常洛が泰昌帝として即位するも、この皇帝は即位から1か月で崩御。そのため、その息子である朱由校が天啓帝として即位することになる。だが、天啓帝は国政には無関心で字すらほとんど読めず、重臣は党派に分裂して内部争いを繰り広げ、国政の実権は天啓帝が頼りにする乳母と親しい関係にあった魏忠賢が掌握するようになった。

明は宰相制度が事実上廃止され、皇帝に絶対権力を集める制度が成立していた。そして歴代皇帝は宦官勢力に依存して独裁権を確立するために、秘密警察を結成していた。魏忠賢は天啓帝の信任をいいことにこの秘密警察を悪用し、自らに反対する重臣らを容赦なく弾圧した。1625年には6君子、1626年には7君子といわれる重臣らを逮捕して、自殺した1名を除いて全員を投獄して殺害した。これらの弾圧は明における有能な人材を枯渇させただけで、特に後者の7君子事件は華南蘇州で大規模な民衆反乱に発展するまでに至った。しかし、自らの欲望にしか興味が無い魏忠賢はこれらの対応をするどころか、自らの権力や権威をさらに高めるために「九千歳」と言わせるようにした。万歳とは中国では皇帝にしか許されないので、1000年減らして九千歳としたのである。さらに、明で発生したあらゆる吉事を捏造し、そしてそれを魏忠賢の賢明な善政によるものとしたり、宮中の文書を全て魏忠賢を褒め称える言葉で書き始めさせたりした。この魏忠賢の専横はとどまるところを知らず、地方長官すら取り入るものが続出し、浙江省の長官などは魏忠賢を生き神様、中華の救世主として祀る神社を建立し、その神社が明のあちこちに建立されるようにまでなった。

しかし、1627年に天啓帝が崩御し、弟が崇禎帝として即位すると、魏忠賢は後ろ盾を失って孤立するようになる。崇禎帝はこれまでの皇帝と違って教養も知識もあり、魏忠賢の存在を憎んでいた。しばらくは魏忠賢の宮中における勢力を警戒して、魏忠賢に敬意をはらって代替わり後も用いるような振りをしていた崇禎帝であったが、自らの皇帝権力が確立したとみるや、即位から3か月後に魏忠賢を宮廷から追放した。さらに崇禎帝は魏忠賢の度重なる悪事を追求し、殺されることを恐れた魏忠賢は首つり自殺した。60歳没。

死後、魏忠賢の一族や仲間は崇禎帝に罪を追求されて殺害されるか追放の憂き目にあった。また、魏忠賢の故郷ではこの悪事を積み重ねた不名誉な宦官の存在をことごとく抹消しようと、彼に纏わる全ての痕跡を破壊したが、魏忠賢について書かれた数百に及ぶ戯曲、劇、小説などが出版されたり演じられて、この汚名は故郷に永遠に残されることになった。

魏忠賢一派を抹殺した崇禎帝であったが、彼の7年に及ぶ悪事や専横で既に明は滅亡寸前となっており、崇禎帝は最後までそれを立て直すことはできず、魏忠賢の死からわずか17年後に崇禎帝も李自成率いる反乱軍に北京を攻められて自殺し、明はここに滅亡した。