高柔

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高 柔(こう じゅう、174年 - 263年)は、中国後漢末期から三国時代にかけての政治家武将。字は文恵(ぶんけい)[1]。高祖父は高慎。曾祖父は高式。祖父は高弘。父は高靖。子は高儁高誕高光。孫は高渾

生涯[編集]

兗州陳留郡圉県(現在の河南省杞県)の出身[1]高幹の族子で高幹に従ったが、高幹の曹操に対する離反では従わずに曹操に降伏した[1]。曹操は袁一族に連なるため高柔をいずれ処刑しようと考えていたが、ひとまずは刺奸令史に任命した[1]。高柔は法の適用が正しく曹操は処刑せずに重用し、以後は魏の重臣として菅県長・太尉司空司徒と重職を歴任する[1]249年司馬懿高平陵の変を起こすと行大将軍事として曹爽の陣営を抑える大功を立て、元帝の時代には領邑4000戸を数え栄進した[1]。263年に90歳という高齢で死去。

三国志演義』では高平陵の変の時にだけ登場している。

脚注[編集]

  1. a b c d e f 小出『三国志武将事典』P101

参考文献[編集]