言延覚書

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言延覚書(げんえんおぼえがき)とは、大内氏に関する史料である。

概要[編集]

著者・成立年代[編集]

著者は巻末の記載から、禰宜言延という75歳の老人で、大坂冬の陣が終了して毛利輝元山口に帰陣した慶長19年(1614年)12月20日に、輝元が言延に「昔の儀」を尋ねたことに対して申し上げたことを誰かが書き留めたものである。つまり、言延はあくまで昔語りをした人物で、誰かがそれを書き留めたというわけだが、その書き留めた人物が誰なのかはわからない。成立が「慶長廿年乙卯二月朔日」とあるため、慶長20年(1615年)2月1日ということになる。つまり輝元が帰国してから40日ほどで完成したということになる。

なお、言延は逆算すると天文9年(1540年)の生まれで、父は大内氏の重臣・禰宜右延。大内家滅亡後は毛利氏に仕えて山口多賀神社の宮司となり、この昔語りを輝元から賞されて衣服を与えられたという。

別称は『大内様御家根本記』(おおうちさまおんいえこんぽんき)、『大内殿滅亡之次第』(おおうちどのめつぼうのしだい)。

内容[編集]

全1巻。大寧寺の変大内義隆自害し、大内家が滅亡する際のことを記した覚書である。言延は大寧寺の変の際に年齢は10歳前後である。

大内家が百済の王族の血筋を引くこと、陶晴賢謀反で大内義隆が自害し、その後釜として大内義長が迎えられたこと、厳島合戦で陶晴賢が毛利元就に滅ぼされたことなどがまずは書かれている。陶については義隆を討ったことを特に批判している。ちなみに陶は「陶殿」、義隆は「様」と敬称が付けられている。

陶の死後、山口市街で大内氏重臣による内紛が起きたこと、それにより市街は灰燼に帰したこと、そして大内義長の滅亡までが記されている。なお、陶に対する批判に加え、陶氏が滅亡する際に後見人の安岡という人物が殉死しなかったことに対して笑い者とした話を載せるなど、陶氏に対する批判、嘲弄は特によく見受けられる。なお、大寧寺の変の原因の1つとなった相良武任が義隆に訴えた『相良武任申状写』を載せており、大寧寺の変の直前における大内義隆と陶晴賢の緊迫した状況を知る上で貴重な史料である。また、実経験者が語ったことなので、信頼性は高い。

脚注[編集]

注釈[編集]

出典[編集]

参考文献[編集]