藤井寺の戦い
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藤井寺の戦い | |
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戦争: 藤井寺の戦い | |
年月日: 正平2年/貞和3年(1347年)8月14日(1347年9月19日) | |
場所: 日本・河内国・藤井寺(大阪府藤井寺市) | |
結果: 楠木軍の勝利 | |
交戦勢力 | |
楠木氏(南朝) | 室町幕府(北朝) |
指揮官 | |
楠木正行 | 細川顕氏 |
戦力 | |
700騎余 | 3000騎余 |
損害 | |
不明 | 六角氏泰、楢崎太郎左衛門、粟米田小太郎ら戦死 |
藤井寺の戦い(ふじいでらのたたかい)とは、正平2年/貞和3年8月14日(1347年9月19日)に河内国藤井寺付近(現在の大阪府藤井寺市)で発生した北朝・室町幕府(大将・細川顕氏)と南朝(大将・楠木正行)との間に発生した合戦である。なお、兵力に関しては『太平記』を参考にしている。
概要[編集]
湊川の戦いで楠木正成が戦死した後、楠木氏は正成の遺児でわずか11歳の正行を後継者として河内で変わらず勢力を誇っていたが、その正行が正平2年/貞和3年(1347年)には22歳の立派な若武者に成長した。正行は当時、南朝で主導的な役割を果たしていた北畠親房の命を受け、足利方の紀伊国守護である隅田氏を破り、その居城である隅田城を落とした(隅田城の戦い)。
この報告を受けた京都の征夷大将軍・足利尊氏は、重臣の細川顕氏を総大将として3000騎余の兵力を与えて出陣させた。これに対して正行は700騎余を率いて河内国の藤井寺付近にまで進軍してきた足利軍を奇襲して大勝した。総大将の細川顕氏は何とか逃げ出して京都に戻ったが、武蔵国児玉党の1人である六角氏泰をはじめ、楢崎太郎左衛門、粟米田小太郎など名のある武士が戦死したという。