隅田城の戦い
ナビゲーションに移動
検索に移動
隅田城の戦い | |
---|---|
戦争: 隅田城の戦い | |
年月日: 正平2年/貞和3年(1347年)8月10日(1347年9月15日) | |
場所: 日本・紀伊国・隅田城(和歌山県橋本市隅田町垂井) | |
結果: 楠木軍の勝利 | |
交戦勢力 | |
楠木氏(南朝) | 室町幕府(北朝) |
指揮官 | |
楠木正行 | 隅田氏 |
戦力 | |
700騎余 | 2000騎余 |
損害 | |
不明 | 不明 |
隅田城の戦い(すみだじょうのたたかい)とは、正平2年/貞和3年8月10日(1347年9月15日)に紀伊国隅田城(現在の和歌山県橋本市隅田町垂井)で発生した北朝・室町幕府(大将・隅田氏)と南朝(大将・楠木正行)との間に発生した合戦である。
概要[編集]
湊川の戦いで楠木正成が戦死した後、楠木氏は正成の遺児でわずか11歳の正行を後継者として河内で変わらず勢力を誇っていたが、その正行が正平2年/貞和3年(1347年)には22歳の立派な若武者に成長した。正行は当時、南朝で主導的な役割を果たしていた北畠親房の命を受け、足利方の紀伊国守護である隅田氏を攻めた。これに対して隅田氏は城から打って出て、正行を迎え撃とうとした。
この際の兵力は楠木軍が700騎、隅田氏が2000騎ほどだったとされる。隅田氏は兵力優位を生かして一気に押しつぶそうとしたが、出撃して手薄になった居城に正行は数百の兵を間道から送って一気に攻め落とした。逃げ出した城兵からの報告で落城を知った隅田氏は慌てて城に戻って取り返そうとしたが、そこに楠木軍の残軍が一気に襲いかかり、隅田軍は徹底的に打ちのめされて隅田氏は京都に向けて敗走した。