董扶

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董 扶(とう ふ、生没年不詳)は、中国後漢末期の政治家茂安(ぼうあん)[1]

生涯[編集]

益州広漢郡綿竹県の出身[1]儒学や未来を予言する天文学(図識)に優れ、後漢朝廷から何度も招聘されるが辞退した[1]何進の推挙を受けて侍中となる[1]劉焉交州牧を希望していたのを聞いて「益州には天子の気がある」と進言して劉焉に益州牧になるように進言[1]。劉焉が益州牧になると蜀郡の都尉となり、189年霊帝崩御の後に退官[1]。82歳で死去した[1]

議論で当時董夫に勝利できる者はいなかったとされ、後に諸葛亮秦宓に長所を尋ねると「毛筋ほどの善を賞賛し、芥子粒ほどの悪を非難した」と答えた[1]

三国志演義』には登場しない。

脚注[編集]

  1. a b c d e f g h 小出『三国志武将事典』P148

参考文献[編集]