尾崎紅葉
ナビゲーションに移動
検索に移動
尾崎紅葉(おざき こうよう、慶応3年12月16日(旧暦・慶応3年は1867年だが、新暦なら1868年-1903年11月3日)は、日本の文豪。
人物[編集]
江戸芝に生まれる。本名・徳太郎。父は「赤羽織の谷斎」と呼ばれる幇間にして角彫り人だった。帝国大学文学部国文科中退。幼馴染の山田美妙、石橋思案らと回覧雑誌『我楽多文庫』を作り、硯友社を名のる。22歳で『二人比丘尼色懺悔(ににんびくにいろざんげ)』を刊行して作家デビュー、読売新聞に入り、大学は中退して小説を書く。『伽羅枕』『三人妻』などで文名をあげ、坪内逍遥、森鴎外、幸田露伴とともに「逍鴎紅露」時代を作り、泉鏡花、徳田秋聲、小杉天外、小栗風葉などの門人を持った。
初期の作風は元禄の西鶴調だったが、明治20年末から、西洋小説や『源氏物語』の影響で写実浪漫主義に転じ、『不言不語(いわずかたらず)』『多情多恨』で新境地を開き、続いて『金色夜叉』を「読売」に連載して一世を風靡した。これはアメリカのバーサ・クレイの『女より弱き者』の翻案とされている。だが病気と思わぬ筋の延伸のため完結できず、読売からも切られ、胃がんのため36歳で死去した。
弟子の徳田秋聲は自然主義のほうへ行ったことで紅葉の浪漫的な作風を受け継いだ泉鏡花から憎まれたとされている。