竹村健一

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竹村 健一(たけむら けんいち、昭和5年(1930年4月7日 - 令和元年(2019年7月8日)は、日本評論家ジャーナリストである。「だいたいやね」で始まる関西弁による辛口コメントで知られる。1989年第5回「正論」大賞受賞。

略歴[編集]

1930年(昭和5年)4月7日大阪府大阪市東成区(現生野区)で生まれる。

旧制姫路高等学校文科甲類(現神戸大学文学部)に入学するが、学制改革により京都大学に移る。1953年(昭和28年の京都大学英文科卒業後、第1回フルブライト留学生としてエール大学に留学。その後、シラキュース大学大学院、ソルボンヌ大学で学ぶ。昭和30年(1955年)、毎日新聞大阪本社で「英文毎日」編集部に勤務。並行して英会話入門書やラジオの台本を執筆。昭和38年(1963年)、毎日新聞を退社して山陽特殊鋼に入社し、調査部長となる。追手門学院大学助教授、拓殖大学客員教授を歴任。

昭和42年(1967年)、マーシャル・マクルーハンのメディア論を日本に紹介して、有名になる。昭和53年(1978年)、テレビ『竹村健一の世相講談』で司会を務めているが、この際のアシスタントは小池百合子であった。

昭和54年(1979年10月7日から放送された時事番組『竹村健一の世相を斬る』(フジテレビ系列(FNN系列)の司会を務めた(平成4年(1992年)まで)[1]。パイプをくわえた独特な風貌と関西弁による分かりやすい時事解説が視聴者に人気を博した。

平成4年(1992年)、テレビ『報道2001』(フジテレビ系列)コメンテーター。関西弁とパイプをくわえた姿が人気を博す。80歳で引退し、その後は旅行やテニスを楽しんでいた[2]。ただし引退後も講演活動を行なったりしている。

死去する2年ほど前から高齢もあって体調を崩して入退院を繰り返し、誤嚥性肺炎などで危険な状況になったこともあったとされる。令和元年(2019年)7月8日午後7時38分、多臓器不全のため、東京都内の病院死去した。89歳没[3]。家族の談話によると、いつも笑いの絶えない病室で、回復力で私たち家族を驚かせてくれたが、最後は家族に見守られながら安らかに息を引き取ったという。

人物像[編集]

  • 趣味はテニス、スキー、スキューバダイビング、ピアノ、ソーシャルダンス。
  • パイプをくわえた風貌と「だいたいやね」で始まる関西弁の辛口コメントで非常に有名である。家族で密葬が行われたが、棺には愛用のパイプなどが収められたという。
  • 著書はベストセラーの「マクルーハンの世界」など500冊以上に及んでいる。
  • 数々のCMにも出演しているが手帳を持って「私なんか、これだけ」(明光商会シュレッダーのCM)「デリーシャスの時代ですよ、デリーシャス」(キッコーマンデリシャスソースのCM)といったセリフが流行語になったこともある。

メディア出演[編集]

テレビ番組[編集]

ラジオ番組[編集]

CM[編集]

  • 金鳥「キンチョール」(1994年) - 「寝たふりキンチョール」
  • ロート製薬「パンシロン液」(1993年)- 「内需拡大になるわけや、わからんかな」
  • 明光商会「MSシュレッダー」(1980年)- で手帳を片手に持ち「私なんかこれだけでやってますよ」
  • キッコーマン「デリシャスソース」(1981年) - 「デリシャスやなくてデリーシャスよ」

音楽作品[編集]

著書[編集]

単独著[編集]

  • 『世界珍行漫行』(祥伝社、1972年)
  • 『竹村健一の世相講談』(エフプロ出版、1977年7月)
  • 『竹村健一の逆発想&クイズ』(実業之日本社「実日新書」、1978年4月)

共著書[編集]

  • 堀江貴文)『世界一の金持ちになってみろ!-単純に考えればうまくいく』(太陽企画出版、2004年10月、ISBN 4-88466-409-4)
  • 日下公人渡部昇一)『日本の黄金時代が始まる-何を守り何を変えるのか』(太陽企画出版、2005年3月、ISBN 4-88466-413-2)

外部リンク[編集]

脚注[編集]

  1. 評論家・竹村健一さん死去朝日新聞、2019年7月11日
  2. 評論家、竹村健一氏が死去サンスポ、2019年7月11日
  3. 評論家の竹村健一さん死去産経新聞、2019年7月11日