福澤房
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福澤 房(ふくざわ ふさ、明治3年7月26日(1870年8月22日) - 昭和29年(1954年)2月18日)は、日本の明治時代から昭和時代にかけての女性。福澤諭吉の次女。姓は福沢とも書かれる。
略歴[編集]
福澤諭吉の次女で、読み書きなどを父母や三田藩主・九鬼隆義の妹のあいから習った。明治12年(1879年)9月から明治14年(1881年)7月まで幼稚舎に在籍し、明治20年(1887年)に横浜の共立女学校に入学したが、ほどなく退学している。以後、英語やピアノなどを慶應義塾の教師であるマリエ・ヴォン・ファーロットから学んでいる[1]。
明治15年(1882年)10月に慶應義塾に入学した福澤桃介(当時は岩崎桃介)と4年後に婚約する。後に桃介は諭吉の婿養子となり、アメリカに留学して帰国した後の明治22年(1889年)に結婚した。この結婚は特に母の福澤錦や姉から歓迎されたという。桃介との間には2人の男子に恵まれている[1]。
房は雪香の号で日本画家として多くの作品を残している。昭和29年(1954年)2月18日に死去。74歳没。墓所は桃介と同じ東京都の多磨霊園である[1]。