石苞
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石 苞(せき ほう、? - 272年)は、中国の三国時代の魏から西晋にかけての武将。字は仲容(ちゅうよう)[1][2]。 子は石越・石喬・石統・石浚・石儁・石崇。孫は石超・石熙・石順。
生涯[編集]
冀州勃海郡南皮県の出身[2]。最初は県の小役人として鄧艾と共に御者となっていた[2]。
『世語』によると魏の青龍年間(233年から237年)に長安で鉄売りをしていたところを司馬懿に見いだされたという。そして尚書郎・青州刺史を歴任した[1]。
257年の諸葛誕の乱では救援に来た朱異率いる呉軍に勝利する功績を立てて諸葛誕討伐に貢献し、鎮東将軍に昇進する[2]。265年に魏が滅んで西晋が成立すると大司馬に任命され楽浪公に封じられるが[1]、石苞の出世を妬む者の讒言を受けて召喚される[2]。後に誤解が解けて最終的には司徒に昇進した[2]。272年に死去。
『三国志演義』では諸葛誕の反乱鎮圧の回で登場し、最終回で驃騎将軍に任命されている[2]。