石川総陽
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石川 総陽(いしかわ ふさはる、元禄6年(1693年) - 延享元年4月10日(1744年5月21日))は、常陸下館藩2万石・石川家の第2代藩主。伊勢亀山藩石川家分家4代。
生涯[編集]
父は相模小田原藩主・大久保忠増で7男。母は側室・向井氏。忠増は石川総長の従兄の子に当たるので血縁的には繋がっている。兄は大久保忠方。弟や姉妹に宇津教保、宇津教逵、岩姫(松平定逵室)らがいる。官位は従五位下、播磨守。
正徳3年4月9日(1713年5月3日)、初代藩主・石川総茂の養嗣子となる。この際、それまでの名前だった尹要(ただのり)を総陽と改めた。12月には従五位下播磨守に叙任。
享保18年9月16日(1733年10月23日)に養父・総茂が死去したことにより、11月4日(12月9日)に家督を継いで第2代藩主となり、雁間詰となる。
元文5年10月7日(1740年11月25日)、養嗣子の総候に家督を譲って隠居し、延享元年(1744年)4月10日に52歳で死去した。