桜井駅跡
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桜井駅跡(さくらいえきあと)とは、大阪府三島郡島本町桜井に存在する国指定の史跡である。
概要[編集]
南北朝時代の延元元年/建武3年(1336年)、建武の新政が崩壊し、足利尊氏が九州で再挙を果たして大軍を率いて東上する。これに対して、楠木正成は後醍醐天皇に尊氏との和睦を進言するが聞き入れられず、無謀な出陣を命じられた。死を覚悟した正成は、湊川の戦いのわずか9日前、長男の楠木正行に「七生報国」を諭して別れたところが、この桜井駅と言われており、『太平記』では「桜井の別れ」として名場面とされ、忠孝の逸話として後世に広く伝承されて大きな影響を与えることになった。ただし、この別れについては虚構とする説も根強い。
正成は湊川の戦いで足利尊氏の大軍に敗れ、弟の楠木正季と共に自害。これにより建武の新政は完全に終焉したと『太平記』には記されている。
明治時代の歌人で国文学者の落合直文の歌で有名な場所であり、同時に乃木希典の筆による「楠公父子訣別之所」の碑、東郷平八郎による明治天皇の御製「子わかれの松のしずくに袖ぬれて昔をしのぶ桜井の里」という碑が建立されている。かの松尾芭蕉も、「なでしこにかかる涙や楠木の露」の句を残している。