本多忠勝武功聞書
本多忠勝武功聞書(ほんだただかつぶこうききがき)とは、本多忠勝に関する史料である。
概要[編集]
著者・成立年代[編集]
著者は不明だが、この著書は「先師の布施源兵衛から聞いた話を多く書き留めた」としている。布施源兵衛がどのような人物か不明だが、本多忠勝に関する記述から合戦の見聞録、長篠の戦いの古戦場の見聞、さらには合戦を見物した百姓からその様子を聞き取った話を載せたりしている。このことから、布施は忠勝に仕えていた、あるいは本多氏に仕えていた家臣だった可能性があり、著者はその弟子ということになる。また、本多氏の家中からも史料を参考にしたと書いている。
成立年代は明確ではないが、本多忠勝の武功を記した後にほとんどの記述から、その武功から元禄8年(1695年)まで何年になるかをわざわざ書いているので、恐らくこの元禄8年が成立年だと考えられる。なお、元禄8年当時の本多家の当主は播磨国姫路藩主の本多忠国で、忠勝の女系の玄孫である。
ただ、元禄8年だと忠勝が死去した年からでも85年、忠勝最後の戦いである関ヶ原の戦いでは95年後となるので、布施が忠勝に仕えていた家臣で、著者がその弟子というのは年齢的に難しいのではないかと思われる。
別称は『忠勝様御武功其外聞書』(ただかつさまごぶこうそのそとききがき)、『本多家武功聞書』(ほんだけぶこうききがき)、『武功聞書』(ぶこうききがき)。
内容[編集]
本多忠勝の武功を書き記したもので、全1巻。
忠勝の武功を中心に編年的に29か条記している。合戦の記事は忠勝の次男・本多忠朝が討ち死にした慶長20年(1615年)の記事が最も新しいが、その忠朝の子・本多政勝の時代の記録まである。
忠勝の話したことを直接書き留めたとは記しておらず、あくまで忠勝の周囲にいた人物の見聞を書き留めたり、あるいは何らかの史料を参考にした、小幡景憲の著書から書き抜いたともしている。また、戦場の絵図も書かれている。
内容から、成立に関する話はもしかすると江戸時代の後代史料であるため、信頼性を補強するために作られた話なのかもしれない。