有珠山噴火

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有珠山噴火(うすざんふんか)とは、北海道の洞爺湖に隣接する活火山・有珠山の噴火のことである。

過去の主な噴火[編集]

1663年の噴火[編集]

大規模なマグマ噴火。 8月13日から地震鳴動が頻発。16日に山頂部からマグマ水蒸気噴火を開始し、17日にクライマックスである軽石噴火(プリニー式噴火)が起こった(有珠b降下火砕堆積物)。地震、噴火が共に激しく、火山雷を伴った。降灰が著しく、南西海上は岸から約5km沖合まで降下物が厚く浮遊した。噴煙柱は津軽地方からも見え、空振は庄内地方でも感じられた。軽石噴火に引き続き、火山岩塊・火山灰の放出が 繰り返され、火砕サージが山麓へ何回も流下した。堆積物の層厚は山麓で1~3m、山腹では数10mに達した。噴火は8月末頃まで続いた。降灰で家屋が埋積または焼失し、死者5名。 総噴出物量2.78km3、マグマ噴出量1.1DREkm3。(VEI5)[1]

1822年の噴火[編集]

大規模なマグマ噴火。 3月9日に地震が起こり始め、次第に頻度を増した。 12日に軽石噴火(プリニー式噴火)を開始。噴火は次第に激しくなった。 15日頃最初の火砕流が発生。 23日には最大の火砕流(文政火砕流[2])が発生し、南東麓から西麓の森林が一面焼き尽くされ、海岸のアブタ集落(現在の入江付近)を焼失 して多数の死傷者を出す(死者数は三松・多田(2003)によると103名、大臼山焼崩日記によると82名、横山・他(1973)によると50名)。堆積物の層厚は西麓で30cm、東麓で1m近くに達した。小有珠溶岩ドームを生成。噴火は少なくとも4ヶ月以上続いた。 総噴出物量0.28km3、マグマ噴出量0.11DREkm3(降下火砕物のみの体積)。(VEI4)[1]

1853年の噴火[編集]

大規模なマグマ噴火。 4月12日から地震や鳴動が起こり始め、次第に激しくなって、 22日に山頂部東側から軽石噴火(プリニー式噴火)を開始。 29日には激しい噴火が起こり、5月4日頃まで続いた。翌5日には大有珠溶岩ドームの成長が始まった。堆積物の層厚は西麓で30cm、東麓で50~100cmに及ぶ。噴火後期には火砕流(嘉永火砕流または立岩火砕流)が発生。大有珠溶岩ドームはその後も成長を続け、その標高は1889年595m、1905年692m、1911年740mと測定された。 総噴出物量0.35km3、マグマ噴出量0.14DREkm3(降下火砕物のみの体積)。(VEI4)[1]

1910年の噴火[編集]

中規模の水蒸気噴火。 7月21日から地震が多発し、次第に激しくなり、24日にはM5程度の地震が発生して虻田村で半壊破損15棟。 やや衰え始めた25日夜に金比羅山で噴火を開始した。噴火は金比羅山から東丸山の西側に至る西北西-東南東方向に並ぶ延長2.7km に沿った地帯で断続的に起こり、大小様々な爆裂火口を8月2日までに約15個、11月までには合計45個生じた。 噴煙は最大約700mの高さに達し、火山岩塊は火口から300m以内に落下した。高温の火山泥流(熱泥流)が6個の火口から直接流出し て洞爺湖に流下、1名が死亡。さらに、西丸山の東側が11月10日までに約155m隆起して潜在ドームである「明治新山(四十三山)」を生成。付近の地形は著しく変化して、家屋・山林・耕地に被害を生じた。マグマ貫入により活動直後に洞爺湖畔で温泉が湧出するようになった。 総噴出物量0.003km3。(VEI2)[1]

1944年~1945年の噴火[編集]

マグマ噴火。

先噴火期 (1943年12月28日~1944年6月22日)[1]

12月28日、有珠山一帯で地震が起こり、北麓では1日20回近くの有感地震があった。 1944年に入り、地震はやや少なくなり、震源が次第に東麓に集中。柳原では地盤隆起が始まり、4月には16mに達した。 4月中旬から、隆起中心が北方のフカバ(現在の昭和新山東部に相当)に移り、最大50m隆起した。地震は激しくなり、6月22日には250回の有感地震が起きた。

爆発期 (1944年6月23日~1944年10月31日)[1]

6月23日、フカバ西方の東九万坪(現在の昭和新山中央部に相当)の畑地から水蒸気噴火が始まった。 7月2日から、爆発が激しくなり、10月末までに10数回の顕著な爆発があった。特に、7月2日、3日の爆発は大きく、多量の噴石・火山灰を放出して農作物に大被害、東方の苫小牧・千歳方面まで降灰があった。 7月11日の爆発で、低温(60~70℃)の火砕サージが発生して保安林や家屋を破壊した。負傷者1名、農作物に被害。 8月26日、幼児1名死亡、家屋焼失。一連の爆発で松本山南側に環状配列した7個の火口が開き、地盤の隆起も続いて高さ100mほどの屋根山(潜在ドーム)となった。

溶岩ドーム生成期 (1944年11月上旬~1945年9月)[1]

11月中旬、屋根山中央部の環状爆裂火口群の中心から新溶岩が現れ始め、やや西側に突出するように上昇を続けた。 1945年9月、地震が少なくなり、溶岩ドームの成長も終わり、その頂部は406.9mとなった。生成された溶岩ドームは「昭和新山」と命名された。 総噴出物量0.11km3(溶岩の体積は潜在部分も含む)、マグマ噴出量0.11DREkm3。(VEI1)

1977年~1978年の噴火[編集]

中規模のマグマ噴火。 8月6日、03:30から有感地震多発。7日、09:12山頂火口原(小有珠南東麓)からデイサイト質マグマによる軽石噴火(プリニー式噴火)を開始、噴煙は1時間後に高さ12000mに達したが、噴火は2時間半足らずで一旦休止。 以降、14日未明までに大きな軽石噴火を含む10数回の噴火が断続。この1週間にわたる第1期噴火で、小有珠溶岩ドーム東麓に第1~3火口、火口原北部に第4火口を開き、火口周辺には多量の軽石・火山灰を堆積した。降灰は山麓の住宅を破壊し、農作物や森林に被害を与えた。 8~9月には西麓で降雨による二次泥流災害が発生。第1期噴火の噴出量は8,300万m3に達した。 第1期噴火以降、残りのマグマは上昇を続け、地震活動を伴って火口原を隆起させ、小有珠北東麓からオガリ山を通り大有珠までの間に断層を形成しながら新しい潜在ドーム(有珠新山)を形成。断層の南西側には幅100~250mの地溝が発達し、小有珠山頂部は沈降を続けた。噴火開始後2ヶ月半で新山は40~50m隆起し、有珠外輪山北東壁は外側へふくらんで水平移動量は48mに達した。山頂部の顕著な地殻変動の影響が北麓にも及び、道路や建物、上下水道等に深刻な被害を生じた。 11月16日から、山頂火口原で水蒸気噴火が始まる(第2期噴火)。 1978年7~9月にはマグマ水蒸気噴火も多発し、10月27日まで噴火活動を繰り返した。この間、断層南側にはA-N火口を開口し、このうちJ-N火口は結合して銀沼火口となった。第2期噴火の噴出量は約750万m3と第1期の10分の1に過ぎなかったが、10月16日と24日には降雨により有珠山全域で二次泥流が発生し、死者2名、行方不明者1名、軽傷者2名、住家被害196棟、非住家被害9棟、農林業・土木・水道施設等に被害を生じた。 その後も、新山の隆起は地震活動を伴いながら1982年3月まで続き、オガリ山と小有珠東麓部は約180m隆起したほか、北外輪山と洞爺湖岸との距離は約180m短縮した。 総噴出物量0.09km3、マグマ噴出量0.04DREkm3。(VEI3)[1]

2000年の噴火[編集]

小規模のマグマ水蒸気噴火。 3月27日午後から地震が徐々に増加。 28日、01:31頃、最初の有感地震が発生(洞爺湖温泉地区で体感)。 30日~31日、山頂部や北西山麓に断層や地割れが生じ、次第に発達拡大。 31日、地震活動のピークが過ぎ、13:07に西山西麓からマグマ水蒸気噴火が発生。火口周辺に噴石を放出、噴煙は火口直上数100mまで上昇後北東側へ流され、高さ3500mまで達した。風下の北東側で降灰、75km離れた千歳でも微量の降灰が認められた。31日噴火の噴出物量は24万トン。 4月1日、11:30頃、金比羅山北西麓から噴火開始。 4月中旬まで、小規模な水蒸気噴火を繰り返し、西山西麓と金比羅山周辺に計65個の火口を形成。西山西麓では4月1-2日、金比羅山では4月2-10日にいくつかの火口から熱泥流が発生。 4月中旬以降、活発な火口は4つ(西山西麓のN-B火口、N-C火口及び金比羅山北西麓のK-A火口、K-B火口)に限定され、西山西麓ではマグマ貫入により最大約80m隆起して潜在ドームを形成。 8月以降、西山西麓の隆起は沈降に転じ、各火口の活動は徐々に低下。K-B火口ではその後も空振を伴う噴石等の噴出が継続 2001年9月を最後にK-B火口の空振や火山灰噴出は見られなくなった。 噴火場所が北西山麓の一部居住地にかかっていたため、小規模噴火だったにも関わらず、道路や上下水道が寸断され、850戸の家屋に被害が生じた。 総噴出物量0.0009km3(マグマ噴出量は微量)。(VEI1)[1]

脚注[編集]

外部リンク[編集]