志和勘助
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志和 勘助(しわ かんすけ、? - 文禄4年(1595年))は、戦国時代の武将。長宗我部氏の家臣[1]。
略歴[編集]
父は志和孫次郎。志和家は高岡郡仁井田5人衆の1人で、仁井田郷志和を本拠に1800貫を領したといわれる[1]。
勘助は腕力が強くて健脚であり、特に弓と笛は名手だったという。長宗我部元親に仕えて文禄の役では朝鮮半島に渡海し、得意の強弓で敵を脅かせたといわれる[1]。
文禄4年(1595年)、元親の命令で阿波国の蜂須賀家政への使者を務める。この際、勘助の剛勇を聞き知っていた家政は自家への仕官を勧めるが、勘助は元親への忠義から拒否した。ところがこれを聞いた元親は勘助を疑い、黒岩玄蕃に命じて土佐国に帰途についていた勘助を安芸のあたりで襲撃させて殺した。さらに志和城も攻めて、勘助の一族まで皆殺しにしたという[1]。
この事件は、長宗我部信親の死で既に狂っていた元親の乱行を示すものとして引用されることが多い。