徳冨蘆花

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徳冨蘆花(とくとみ ろか、明治元年(1868年)10月25日(旧暦)- 1927年9月18日)は、日本の作家。

人物[編集]

肥後国生まれ。本名・健次郎。兄は徳富蘇峰。兄について京都の同志社英学校に学ぶが中退、兄が興した大江義塾で学ぶ。17歳でキリスト教の洗礼を受ける。同志社の新島襄の妻八重の兄・山本覚馬の娘・久栄と恋をするが、周囲の反対にあい断念、傷を負う。

上京、結婚し、文学に目を開かれ、トルストイに傾倒。1898年、兄の『国民新聞』に通俗小説「不如帰」を連載し、絶大な人気作品となり歌舞伎・新派で上演され、単行本は版を重ねた。また評論『自然と人生』は、近代日本の自然描写の流れの重要な作品で、ディケンズの『デイヴィッド・コパーフィールド』の翻案の『小説思出の記』や、新島襄と山本久栄のことを描いた『黒い眼と茶色の目』などを書いた。

日露戦争後の1905年にロシアにトルストイを訪ねた。1910年の大逆事件の際には、第一高等学校で「謀叛論」の講演をしたが、これは幸徳秋水らを死刑にすれば殉教者になってしまうから助命するように、と言いつつ「僕は天皇陛下が大好きだ」と言う類のもので、何ら過激なものではなかった。

その後の蘆花には、神がかり的で、自分と妻を神扱いするような奇矯な言辞が多かったことを、中野好夫『蘆花徳冨健次郎』に書いてある。兄・蘇峰は国粋主義のほうへ行ったため兄とは袂を分かったが、59歳で死去した。著作にはほかに『みみずのたはこと』『冨士』などがある。弟子に、前田河広一郎がいる。