寒天

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寒天(かんてん、: agar/agar-agar)は、藻類の一種であるテングサなどの紅藻類から抽出した多糖類を凍結・乾燥したものである。日本ではじめて作られた。

概要[編集]

白く、半透明の物質で、重量は軽い。水濡れは厳禁である。

用法[編集]

細菌類菌類といった原生生物の培養をする寒天培地として医療、薬用に使用される。また、ゼリーといった製菓用にも使われる。

寒天の発見[編集]

寒天の先祖である「ところてん」は遣唐使の時代、今の中国から導入され作り始めた。ところてんは 平安時代から食されており、歴史は1200年に及ぶ。4代将軍徳川家綱の頃、京都・山城国伏見の御駕籠町(現在の京都市伏見区)の美濃屋太郎左衛門の旅籠に、島津薩摩藩主島津大隅守が参勤交代のため宿泊した。美濃屋の料理中にテングサを煮て作った「ところてん」料理があり、残ったところてんの一部を外に捨て置いた所、真冬の寒さにより夜のうちに凍結し、日中は解凍され、数日間放置しておいたところ、乾燥して干物になった。太郎左衛門は水と一緒に煮て放置すると、ところてんより白くなり、当時のところてんと比べても、海藻臭がしないところてんができた。寒天製造方法の最初の発見であった[1]。日持ちするとともに、持ち運びが便利となった。

摂津寒天の誕生[編集]

摂津国島上郡清水村城山の宮田半兵衛は1781年、伏見の、美濃屋で寒天製造法を学び、寒天作りの技術を習得した。現高槻市で製造器具など技術革新を行い、良質の寒天を作るようになり、ひろまった。

命名[編集]

当時は「ところ天の乾物」と呼んでいたが、僧隠元精進料理として用い「寒天」と名付けたという。

輸出[編集]

幕府は対明貿易の有力な輸出品のひとつに「寒天」を選んだ。19世紀に寒天培地が考案され、これによる国内需要と輸出貿易の増加により19世紀から20世紀中頃まで寒天の全盛期を迎えた。

産地[編集]

長野県中部が産地として知られている。原料のテングサは伊豆大島などから入手する。

関連項目[編集]

  • 凍り豆腐 - 同じく寒中に乾燥させてつくる乾物

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参考文献[編集]