宋忠
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宋 忠(そう ちゅう、生没年不詳)は、中国の後漢時代末期の学者・政治家。字は仲子(ちゅうし)[1]。宋衷とも表記される[1]。
生涯[編集]
荊州南陽郡の出身[1]。劉表に招聘されて彼が開設した学校に赴き、綦毋闓と共に『五経章句』を編集した[1]。208年に劉表が死去すると後継者の劉琮に仕え、劉琮が曹操に降伏した際に客将の劉備にはしばらく知らせず、やがて劉琮の命令で宋忠が劉備にその経緯を知らせる使者になると、劉備は激怒して宋忠に刀を突きつけながらなじった[1]。その後は曹操に仕えている[1]。
219年の魏諷の乱の際に宋忠の息子が連座しているが本人は連座していないため、この時までには死去していたものと推測される。
『三国志演義』では曹操へ降伏を申し込む使者として立ち、大役を果たすが帰路に関羽に捕らえられて劉備の下へ引っ立てられる。事情を知った張飛は激怒して宋忠を殺そうとしたが、劉備のとりなしで許されて解放された。