日本共産党(解放戦線)
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日本共産党(解放戦線)は、日共左派系の左翼党派。『人民新聞』の母体。日本共産党解放戦線[1]、日本共産党「解放戦線」派とも[2]。
概要[編集]
1965年9月に日本共産党の分派として結成され、インドネシア共産党の武装闘争支持のビラ撒きなどを行った。ここから1966年に日本マルクス・レーニン主義運動、1967年7月に日本共産党(マルクス・レーニン主義派)が分裂した[2]。学生運動の高揚や編集に協力していた中国共産党系の新聞『中国新報』では制約があることが契機となり、1968年に政治新聞『新左翼』を創刊した[1]。1969年時点の所在地は大阪市大淀区(現在の北区の北部にあたる)の新左翼社[2]。『新左翼』は後に名称を『人民新聞』に変更した[1]。
田代則春によれば、1965年9月に機関紙『平和と独立』を創刊。1968年8月に組織の一部が新左翼運動全体の宣伝機関を目指して新左翼社を設立し、紙名を『新左翼』に改題した。新左翼社は1976年4月に「全国政治新聞」を目指して紙名を『人民新聞』に改題し、社名も人民新聞社に変更した。日本共産党(解放戦線)は1968年8月以降は活動停止状態となっている[3]。構成員は約30名[4]。
日本共産党によれば、1957年に党を除名された志田重男らは、1964年頃から「マルクス・レーニン主義研究会」名義で党を批判する雑誌『レーニン主義』を発行。1965年8月に「日本共産党(解放戦線)全国指導部」を立ち上げ、『レーニン主義』を『平和と独立』に改題した[5]。1968年以降は組織的動きは無いが、関西を中心に『人民新聞』の発行を行っている[6]。