大木金太郎
大木金太郎(おおききんたろう、韓国ではキム・イル(漢字:金一)、1929年2月24日‐2006年10月26日)は韓国出身のプロレスラーである。
略歴[編集]
韓国の全羅南道高興郡出身のシムルの選手で、1956年に日本に密入国し捕まる。その後、同じ朝鮮半島出身の力道山に入門願いの手紙を書き、力道山が身元引受けをして、日本プロレスへ弟子入りが認められる。
当時の日本プロレスの新人としてジャイアント馬場やアントニオ猪木と並んで、若手三羽烏と呼ばれていた。非公式でセメントマッチを行った時は、大木が馬場に勝ち、猪木と大木は引き分けだった。
やがて馬場と猪木は団体のエースとして活躍するが、大木は自出もあり4番手ぐらいの損な役回りだったという。その後、海外武者修行を切り上げて勝手に帰国するなど問題行動が目立って、干された形となってしまう。
馬場と猪木が対抗心から袂を分かち、それぞれ日本プロレスから出た後、やっと大木がエースになる時代が来たが。ほどなくして日本プロレスは崩壊し、大木は故郷の韓国に一旦戻った。
かってはエースに拮抗する実力があると言われた大木をプロレス界が放っておく手はなく、まず新日本プロレスが、次いで全日本プロレスが大木を各団体のエースのライバルとして招聘した。
新日本では壮絶な一騎打ちをやり、全日本では金一道場の若手プロレスラーを交え、国際プロレスも入れて三軍対抗戦を行った。
しかし、大木自体の商品価値がなくなると、両団体にいられなくなり、末期の国際プロレスでエースとなり念願のインターナショナルヘビー級のベルトの防衛戦を果たした。
その後国際プロレスで防衛戦を行ったが、ジャイアント馬場がインターナショナルヘビー級の復活を持ち上げ、時期を同じくして韓国プロレス協会から引退勧告をされる。ここでインターヘビー級のベルトは大木の元を離れて全日本プロレスのものになった。
国際プロレスとの契約が終了すると再び韓国に戻り、1984年頃に引退した。日本では1995年に東京ドームにて引退式を行う。
晩年は頭突きのやりすぎによる後遺症に悩まされ。長い闘病生活の後に韓国で亡くなっている。享年77歳。
家族・親族[編集]
- 年の離れた弟
- 娘の婿
弟子[編集]
参考文献[編集]
- 『自伝 大木金太郎 伝説のパッチギ王』、2011年2月20日。