坂本敏美
坂本 敏美 | |
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基本情報 | |
国籍 | 日本 |
出身地 | 北海道静内郡静内町 |
生年月日 | 1952年1月8日 |
死没 | 2008年2月10日(満56歳没) |
騎手情報 | |
所属団体 | 愛知県競馬組合 |
所属厩舎 | 名古屋・安達小八(1969 - 1985) |
初免許年 | 1969年 |
免許区分 | 平地 |
騎手引退日 | 1985年7月19日 |
坂本 敏美(さかもと としみ、1952年1月8日 - 2008年2月10日)は、愛知県競馬組合・名古屋競馬場に所属していた騎手である。
経歴[編集]
生後間もなくに父と死別し、母親の再婚先の家に養子に入るという少年時代を送る。
中学3年の時に義理の兄が競走馬の育成牧場に務めていた縁があって名古屋競馬の安達小八調教師に誘われてジョッキーの道を志し、那須の騎手教養所を経て1969年4月に愛知県競馬組合でジョッキーデビューを果たす。
1971年以降、73年と77年を除いて名古屋競馬のリーディングジョッキーとなり、東海地区初の2000勝達成騎手となった。東海優駿の初代優勝騎手でもある。
1985年7月19日、薄暮の中行われた名古屋競馬第8レース。坂本はハイセイヒメに騎乗したが、4角付近でハイセイヒメが心臓麻痺により突如バランスを崩す。馬を御しきれなくなった坂本は馬の右側へ転倒し、ハイセイヒメも右側へと転倒。坂本はハイセイヒメの下敷きになり、何とか一命を取り留めるも頚椎損傷の診断を受け、首から下が不随となって騎手生命を絶たれた。心臓麻痺を起こしたハイセイヒメは死亡した。
騎手生命を絶たれた後の坂本は所属していた名古屋競馬に補償を求めるも、当時は補償制度がなく訴訟を起こしたが敗訴。競馬主催者の名古屋市から見舞金100万円が支払われたのみだった。妻とは離婚を余儀なくされた。
後に福井県の身体障害者施設でリハビリ生活を送り、バランスを取って電動車いすを操作して遠出をしたり、口に棒を咥えてパソコンを操作するなどアクティブに過ごしていたが2008年2月10日心筋梗塞のため56歳という若さでこの世を去った。
エピソード[編集]
後年「東海のエース」として一時代を築き、地方から中央へと移籍した安藤勝己、そして全盛期の層の厚い笠松競馬場の騎手が束になっても太刀打ちできない無類の強さを誇った。坂本の騎乗スタイルは基本からまるで逸脱しているのにレースには勝つという誰にも真似できない、もとい、真似をする気すら起こさせないものだった。
騎手生活の晩年はジユサブローの主戦騎手を務めていた。坂本の怪我による引退後、ジユサブローは鞍上に鈴木純児を迎えて1986年のオールカマーで中央勢相手に勝利を収め、ジャパンカップへも出走。「地方最強馬」の触れ込みもあって、一時は単勝1番人気に推された。道中位置取りも上手く、最後の追い比べ勝負に持ち込んだが伸びきれずに7着に沈んだ。この時のジャパンカップに出走していた日本馬ではミホシンザン、ラグビーボール、サクラユタカオーに次ぐ4番目となる順位であったが、管理調教師の安達小八は坂本が居れば…と嘆いた。