国定忠治
国定 忠治(くにさだ ちゅうじ、忠次とも、文化7年(1810年) - 嘉永3年12月21日(1851年1月22日))は、江戸時代後期の侠客である。「国定」は生地である上野国(上州)佐位郡国定村に由来し、本名は長岡 忠次郎。江戸時代後期の侠客として有名であるが、そのほとんどは後年の講談や芝居、ドラマなどで創作されたものが多いと見られている。
生涯[編集]
上野国定村(佐波郡東村国定)の素封家・長岡家に長男として生まれる。
大親分の前田英五郎から兄弟分の盃を貰ったのが、博徒への世界に入る第一歩であったとされている。天保5年(1834年)に縄張り争いから島村の伊三郎を斬り殺して凶状持ちとなった。ただ、これ以降に伝わる忠治の逸話などは後世における芝居、講談、映画などによる影響で誇張されたものが多いとされており、事実ではないとされている。後世の創作で忠治像が誇張され、あるいは美談化されてしまい、それにより「偉大な侠客である忠治像」が作り上げられてしまい、現在では最早否定することも訂正することも困難な状況になっている、というのが実像らしい。例えば、板割浅太郎こと浅次郎が忠治の心遣いに気付かずに叔父の御室の勘助を斬る話があるが、史実では忠治が子分を8名ほど同行させて十手持ちだった勘助を浅次郎に無理やり殺させた、というのが真相とされている。また、多くの映画やドラマにおいて、忠治は困窮する農民のために代官所を襲って悪代官を斬り殺したとされているが、これも事実ではないと見られている。
嘉永3年(1850年)、忠治は病に倒れていたが、この際に関所破りなど様々な凶状を理由にして捕縛され、大戸の関所に近い刑場において磔の刑に処されたという。41歳(数え)没。墓所は東村国定の養寿寺境内と、伊勢崎駅に近い善応寺の境内の2か所に存在する。
逸話[編集]
現在、忠治の墓がある養寿寺は「忠治の寺」として親しまれているが、この寺にある忠治の墓石を削って飲むと「賭け事に強くなる」などと言われてたびたび墓石が削られることが続いたため、寺では墓石に金柵をめぐらせて近づけないようにしたという話がある。
国定忠治を主題とする作品[編集]
芝居[編集]
- 上述の通り新国劇、大衆演劇の定番である。
- 演歌歌手の公演でも演じられる。たとえば北島三郎の特別公演では、この話を劇に使ったことがある。
- 大衆演劇では、2011年5月に、西条晃(現・曾我廼家晃)が、国定忠治の処刑場の場までの長編の芝居を上演した。
映画[編集]
戦前[編集]
- 『実説国定忠治 雁の群』(1923年、松竹キネマ(蒲田撮影所))、野村芳亭監督、勝見庸太郎主演。[1]
- 『忠次旅日記』(1927年、日活大将軍撮影所)、伊藤大輔監督、大河内傳次郎主演。
- 『国定忠治』(1933年、千恵蔵プロ)、稲垣浩監督、片岡千恵蔵主演。子母澤寛の新聞小説の映画化。「主題歌」として淡谷のり子の歌と原作者子母澤作詞による中野忠晴の歌の両A面レコードが発売された。
- 『浅太郎赤城の唄』(1934年、松竹キネマ)、秋山耕作監督、高田浩吉主演。松竹キネマ初のトーキー。映画よりも東海林太郎の主題歌『赤城の子守唄』が大ヒットした。
- 『國定忠治 信州子守唄』(1936年、マキノトーキー製作所)、マキノ正博監督、月形龍之介主演。
- 『忠治血笑記』(1936年、マキノトーキー製作所)、久保為義・マキノ正博共同監督、葉山純之輔主演。
- 『忠治活殺剱』(1936年、マキノトーキー製作所)、久保為義・マキノ正博共同監督、清水英太朗主演。
戦後作品[編集]
- 『国定忠治』(1946年、大映)- 松田定次監督、阪東妻三郎主演。
- 『国定忠治』(1954年、日活)- 滝沢英輔監督、辰巳柳太郎主演。(辰巳版忠治は新国劇の看板演目だった)
- 『赤城の血煙 国定忠治』(1957年、松竹)- 子母澤寛原作、福田晴一監督、高田浩吉主演。
- 『国定忠治』(1958年、東映)- 行友李風原作、松田定次監督、片岡千恵蔵主演。
- 『国定忠治』(1960年、東宝)- 谷口千吉監督、新藤兼人脚本、三船敏郎主演。
- 『浪曲国定忠治 赤城の子守唄 血煙り信州路』(1960年、第二東映)- 冬島泰三監督、若杉恵之介主演。
歌[編集]
ドラマ[編集]
脚注[編集]
- ↑ 実説国定忠治 雁の群日本映画データベース