呂禄

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呂 禄(りょ ろく、? - 紀元前180年)は、前漢武将政治家高祖皇后である呂后の甥で、呂后が権力を握った時代に趙王・上将軍に封じられた[1]

生涯[編集]

呂雉の次兄・呂釈之の子で、呂太后が権力を握って呂氏一族の時代になった際の紀元前187年、胡陵侯に封じられた[1]

後に高祖の息子で趙王の劉恢が呂太后の圧力により自殺を遂げると、呂禄が代わりに趙王に封じられた[1]。また呂太后の命令で娘を高祖の庶長子で斉王であった劉肥の息子・劉章に嫁がせた。

紀元前180年に呂太后が重態になると、一族の呂産と共に後事を託される立場となり、呂太后から上将軍に任命されて北軍(長楽宮を守る禁軍)の指揮権を与えられた[1]。また、呂太后の遺詔に従って娘を皇帝少帝弘の皇后として嫁がせた。

しかし呂太后の死後、陳平周勃らによる反呂氏の政変が始まり、呂禄は叔母の呂嬃に指揮権を返上すると言い出したので「将軍なのに指揮権を手放せば、呂氏一族は居場所が無くなる」と怒って宝玉や宝器を取り出して庭にぶちまけ、「どうせ劉氏一族の物になるのだから、大切にしておくことは無い」と言って叩き壊したという[1]

呂禄は酈寄と親友であったが、酈寄は周勃と通じて呂禄に北軍の指揮権を返上するように説得し、呂禄はこれに応じて指揮権を周勃に渡してしまった。結局、呂禄は周勃に騙される形で北軍の指揮権を奪われ、そして処刑された[1]

脚注[編集]

  1. a b c d e f 青木五郎、中村嘉広 編『史記の事典』大修館書店、2002年、p.570

参考文献[編集]