劉章

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劉 章(りゅう しょう、? - 紀元前177年)は、前漢前期の皇族。斉王・劉肥(悼恵王)の次子で高祖の孫。斉王・劉襄(哀王)は兄。城陽王に封じられ、諡号は景王。城陽共王・劉喜の父。

生涯[編集]

父は前漢の初代皇帝・高祖の庶長子である劉肥[1]紀元前189年に父が死去した後、斉王の地位は兄の劉襄が継承し、劉章は長安に上京して漢室の宿衛にあたった[1]紀元前187年呂太后の命令で甥の呂禄の娘を妻に迎えることになり、さらに朱虚侯に封じられた[1]

劉章は硬骨漢として知られる。紀元前181年に宮中で宴会が開かれ、劉章は「酒吏」(宴会を司会して席を取り締まる役)に命じられた。この際に劉章は呂太后に対して「酒吏は色々なやり方がありますが、私は将軍の家系なので軍法によって務めさせて頂きます」と述べ、呂太后もそれを承諾した。劉章は司会役として酒を勧めたり、余興をやるように出席者に勧めたが、出席者は劉章が軍法によって司会を進行させているため断れなかった。断った場合は命令違反で斬刑になるからである。ところがしばらくして呂氏一族の者が酒に酔ってそっと席を外してしまった。劉章は追いかけてその者を斬り殺し、そして呂太后に「無断で退席した者がおりましたので、軍法によって斬りました」と報告し、呂太后も軍法による司会を許していたので罪に問うことができなかったという。

また、劉章はこの宴会で「呂太后のために、耕田の歌を献じたい」と申し出た。呂太后が「そちの父ならともかく、生まれながらの王子であるそちでは耕田のことなど知るまい」と笑った。すると劉章は「深く耕し、しげく種をまき、苗を植えるのはまばら、その種でない雑草は、鋤でこれを除き去る」と歌った。この歌の「その種でない雑草は鋤で除け」とは劉氏の天下だから、劉氏で無い者がはびこれば武器で除かなければならないという意味にも、今は呂氏の天下だから、呂氏ではない劉氏の者は除かれたともとれる。このように劉章は大胆不敵でもあった。

紀元前180年に呂太后が死去すると、呂禄の娘を妻にしているにも関わらず、兄の劉襄と共に決起を画策し、陳平周勃とも協力して長安にいた呂氏一族の大黒柱である呂産呂更始を斬り[1]、さらに呂氏一族もほぼ全員殺害した。その後、文帝が即位すると紀元前178年に城陽王に封じられた[1]。その翌年に若くして死去した。

脚注[編集]

  1. a b c d e 青木五郎、中村嘉広 編『史記の事典』大修館書店、2002年、p.567

参考文献[編集]