呂産

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呂 産(りょ さん、? - 紀元前180年)は、前漢武将政治家高祖皇后である呂后の甥で、呂后が権力を握った時代に呂王・相国に封じられた[1]

生涯[編集]

呂雉の長兄・呂沢の子で、呂太后が権力を握って呂氏一族の時代になった際に兄の呂台が呂王に封じられた。やがて呂台が死去してその息子の呂嘉が王位を継承するが、呂嘉は驕恣であったので呂太后により廃され、代わりの呂王として呂産が立てられた。呂太后により高祖の息子で趙王であった劉友が殺害され、新しい趙王に劉友のすぐ上の兄である梁王の劉恢が封じられると、呂産が代わりに梁王に封じられ、なおかつ娘を劉恢に嫁がせることになった。

紀元前180年に呂太后が重態になると、一族の呂禄と共に後事を託される立場となり、呂太后から相国に任命されて南軍の指揮権を与えられた[1]

しかし呂太后の死後、陳平周勃らによる反呂氏の政変が始まり、斉王の劉襄劉章らが反乱を起こしたので、呂産は灌嬰に軍を預けて討伐させようとした。しかし灌嬰は反呂氏の立場を明確にして動こうとしなかった。そして従兄弟の呂禄が北軍の軍権を周勃に返還したのを機に劉氏一族の劉章の軍勢が呂産のいる南軍に斬り込んで来た際、大風が吹いて家来らが戦わずに逃げ出したので、呂産は劉章から身を隠すために便所に身を潜めたが見つけ出されて斬られた[2]。この際に呂更始も斬られている。

呂産の死により、呂通・呂禄・呂嬃ら呂氏一族は悉く捕らえられて一族皆殺しにされた。

脚注[編集]

  1. a b 青木五郎、中村嘉広 編『史記の事典』大修館書店、2002年、p.569
  2. 青木五郎、中村嘉広 編『史記の事典』大修館書店、2002年、p.570

参考文献[編集]