同志社墓地
同志社墓地(どうししゃぼち)は京都市左京区にある同志社関係者の共葬墓地である。
概要[編集]
若王子山山頂の京都市営若王子墓地内に同志社墓地がある。1890年1月23日、新島襄は神奈川県大磯の百足屋旅館で亡くなった。当初は、父の民治が眠る南禅寺山内に葬られる予定であったが、新島の葬儀の前日になり南禅寺側から、葬儀は一切キリスト教の式によらないこと、キリスト教徒であったという碑は建てないことなど三つの条件が、同志社へ通告された。困った同志社の遺族は、現在の墓所である若王子山の埋葬地に変更した。実際は墓地は名ばかりであり、潅木が生い茂ったさびしい小山に過ぎなかった。1890年1月27日夕刻、同志社で新島の葬儀が行われた。棺は学生らに担がれ、遺骸は若王子山に埋葬された。本人の希望により木製の墓碑が建てられた(初代墓碑)。墓に板塀をめぐらし、観音開きの格子戸がつけられた。翌1891年1月、新島の墓碑は鞍馬産の自然石により立て替えられ(2代目墓碑)、勝海舟の筆になる碑銘を、自然のままの鞍馬石に刻んだ墓碑となった。1891年12月12日、山崎為徳を若王子山に移葬した。1892年、山本覚馬が亡くなり同志社墓地に葬られた。 当初は京都市から許可されたのは、新島・山本両家の墓としてであった。 1910年、新島の妻の新島八重らは、京都市より墓地の使用許可を得る。1910年11月4日ジェローム・デイヴィスがなくなり、新島・山本両家の墓から離れた場所に埋葬されたが、1920年9月4日に若王子の同志社墓地へ分骨埋葬された[1]。1932年、新島八重が亡くなり、同志社墓地の新島の隣に葬られた。1934年、同志社は墓地の使用権、管理権を京都市から認められた。同時に同志社は、京都市に対しこの地を記念墓地として永遠に保存することを確約した。同志社にとって「聖地」となった。1973年、同志社関係者のために新たに同志社共葬墓地が設けられた。2001年、グリーン夫妻の墓は、東京の青山霊園から同志社共葬墓地に移された。現在は、徳富蘇峰、山本久枝、外国人宣教師、同志社共葬墓に秦孝治郎、住谷悦治、中村栄助などの同志社関係者が250名以上埋葬されている[2]。
アクセス等[編集]
- 名称 同志社墓地
- 本店住所 京都市左京区鹿ケ谷若王子町番地