吉田孝頼
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吉田 孝頼(よしだ たかより、生没年不詳)は、戦国時代の武将。長宗我部氏の家臣。
略歴[編集]
法号の吉田 周孝(よしだ しゅうこう)の姓名でも知られる。土佐国長岡郡吉田城主で、先祖は藤原秀郷といわれる。弟に吉田重俊、子に吉田貞重がいる[1][2]。
長宗我部国親に仕え、知勇兼備の名将として長宗我部家の拡大に大きく貢献。大永6年(1526年)に国親の娘が香宗我部親秀の子・香宗我部秀義に嫁ぐ約束になっていたが、吉田はこれを戦略上から反故にすることを国親に進言し、娘は本山茂辰に嫁がせるように勧めた。これで面目を失った親秀は激怒し、国親と敵対するが、吉田は自ら剃髪すると僧侶の姿になって親秀にひたすら詫びて怒りを解くことに努めた。結果的に親秀はひたすら謝罪する吉田の姿に国親を許し、娘を奪ったとして本山茂辰を恨むようになって敵対の目を向け、長宗我部氏は漁夫の利を得ることになった[1]。
剃髪してからは通称備中入道といわれるようになり、国親が死去した後は長宗我部元親に仕えた[1]。長浜の戦いなど土佐統一戦争で大きな手柄を次々と挙げ、土佐郡井口城主の井口勘解由を討ち取った功績により元親から井口城を任されたが、永禄年間に病死したという[2]。