吉松光久
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吉松 光久(よしまつ みつひさ、生没年不詳)は、戦国時代の武将。本山氏、後に長宗我部氏の姻戚で家臣。通称は十右衛門(じゅうえもん)[1]。
略歴[編集]
吉松家は土佐国土佐郡秦泉寺城主・秦泉寺氏の一族で、清和源氏の後裔と伝えられている。光久ははじめ、本山氏に仕えて土佐郡の万々城主になったが、長宗我部家の圧迫を受けて降伏し、長宗我部元親に仕えて元親の娘を娶って姻戚となり、受領名も備後守を称して活躍した[1]。
永禄6年(1563年)の時点で子の光勝の活躍が確認されているため[1]、早くに没したか隠居した可能性がある。また、元親の娘を娶ったとあるが、天文8年(1539年)生まれの元親の娘を娶ったとは年齢的に考えられず、少なくとも実の娘では無い可能性が高い。