「第2回エンペディア大賞」が2月いっぱい開催中です。2024年に作成された記事の中から、お気に入りの記事に投票しましょう!
吉松光勝
ナビゲーションに移動
検索に移動
吉松 光勝(よしまつ みつかつ、生没年不詳)は、戦国時代の武将。長宗我部氏の家臣。通称は四十右衛門(しじゅうえもん)[1]。
略歴[編集]
吉松家は土佐国土佐郡秦泉寺城主・秦泉寺氏の一族で、清和源氏の後裔と伝えられている。吉松光久の子で受領名は筑後守[1]。
永禄6年(1563年)、長宗我部元親の命令を受けて、土佐郡大河内城を攻めて城主の伊達入道を倒し、その功績により大河内城主に任命されて5000貫を与えられた[1]。
光久の妻は元親の娘と言われるが、天文8年(1539年)生まれの元親の娘が永禄6年(1563年)時点で城攻めの采配をとれるほどの息子を産んだとはとても思えず、母親は元親の娘では無い可能性が高い。
脚注[編集]
注釈[編集]
出典[編集]
- ↑ 以下の位置に戻る: a b c 山本大「長宗我部元親のすべて」P214